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【熱狂の昭和13年】なぜ日本はドイツの若き使節団「ヒトラー・ユーゲント」に沸き返ったのか?

ヒトラーユーゲントの一行(出典:wikimedia Commons、連邦公文書館所蔵)
ヒトラーユーゲントの一行(出典:wikimedia Commons、連邦公文書館所蔵)
 昭和13年(1938)8月16日、同盟国ドイツの快速船グナイゼナウ号が横浜港に姿を現しました。この船に乗っていたのは、わずか30名からなるドイツの若き使節団、ヒトラー・ユーゲント(HJ)の一行です。

※本稿は、過去の歴史的事実を伝えるものであり、特定思想の支持を意図するものではありません。

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日本中が歓迎ムード一色に

 1920年代のドイツでは、14歳から21歳までの青少年の43%がどこかの青少年団体に所属していました。そうした中、1936年に法律により設立されたのが、ヒトラー・ユーゲント(HJ)です。

 HJは「これまでの歴史の中で最も有効な組織」とも評され、10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられており、「ヒトラー青少年団」とも呼ばれます。

 彼らが来日してから帰国するまでの約3ヶ月間、日本はHJブームに沸き返ります。来日に先立ち、土井晩翠や北原白秋といった著名な作詞家たちが一行歓迎の国民歌謡を制作しました。それが、土井晩翠作詞・東京音楽学校作曲の『ヒトラー・ユーゲント歓迎の歌』と、北原白秋作詞・高階哲夫作曲の『萬歳ヒトラー・ユーゲント独逸青少年団歓迎の歌』です。

 北原白秋と高階哲夫が手がけた『萬歳ヒトラー・ユーゲント独逸青少年団歓迎の歌』は藤原義江の歌でビクターより発売。その歌詞は次のように手放しでナチス・ドイツを称えるものでした。

「燦たり輝くハーケン・クロイツ ようこそ遥々西なる盟友… 萬歳ヒトラー・ユーゲント 萬歳ナチス」

 また、彼らHJ自身が日本で団歌を吹き込んだレコード『我らの旗は陣頭に翻る』と『團旗の下に』もキングレコードから発売。さらに歓迎歌だけでなく、ラジオ・新聞・展覧会・街頭パレード・スポーツ競技会など、あらゆるメディアやイベントが歓迎ムードを盛り上げました。

持ちかけたのはドイツ側

 日独の関係は、昭和11年(1936)11月25日に締結された日独防共協定を機に深まります。昭和13年4月には文部省内に青少年交流のための組織「日独青少年団交歓会」が設けられ、交流計画が具体化します。

 実は、この訪日のきっかけはドイツ側からの提案でした。昭和12年2月4日の『大阪朝日』の報道によると、

「日本側少年団代表7名が昭和12年8月にドイツ訪問の予定だったところを、翌春1月に繰り延べ、半年間滞在してもらう。その後にHJの代表が日本を訪れ、これまた半年間日本各地を視察する…」

 これらの申し出がドイツ側から外務省にもたらされたそうです。

 交流計画の調整のため、昭和12年5月にはHJの駐日代表・ラインハルト・シュルツェが来日し、文部省内に執務室を与えられました。同年9月3日には頭山満や緒方竹虎などの言論界・メディア関係者が出席し、「日独防共の大精神を強調する」宣言が発表されるなど、計画は着々と進みます。

来日直前、過熱する報道と歓迎熱

 来日1ヶ月前になると新聞紙面はHJの熱狂を煽る記事で溢れかえります。7月22日夕刊でHJ滞在中の詳細日程が掲載され、31日には訪日リーダーの顔写真入り紹介記事が載せられます。彼らを乗せた船が日本に近付くにつれて、日々の様子が刻々と報じられました。

「同盟国シンガポール四日発、憧れの日本に近付く」(8月5日)

「香港特電九日発、憧れの日本愈々近し」(8月10日)

「上海特電十三日発、瞼の日本もう直だ」(8月14日)

下記は、8月14日、来日直前に新聞の子供欄に写真入りで書かれた記事です。

「仲良しのお国の青少年たちを皆さん真心をこめて歓迎してあげようではありませんか。ところで皆さんはヒトラー・ユーゲントとはどんなものかはっきり知っておかねばなりません」

 そして日本到着の16日からは、家庭欄に「大戦中のドイツの銃後と婦人」が連載されます。

 8月15日の社説「ヒットラー青年を迎ふ」では、以下のように述べ、彼らを理想的な存在として捉えていました。

「民族共同心と祖国愛とを基調に、肉体的精神的訓練に邁進する青少年の一団を迎へて、親しくその言動に接することが我が国の青少年運動の貴重なる実物教訓たるを疑はない」

 訪問先の行政機関は歓迎団を組織し、交歓会出席者の服装まで指定するなど、いまかいまかと待ち構えていました。しかし、国民の熱狂ぶりは予想をはるかに超えていました。不測の事態を避けるため、ついに文部省は「主たる通過駅以外での歓送迎はなるべく中止する事」「歓迎、礼を失ふな。個人的贈り物は遠慮せよ」などと告示・通達する事態となったのです。

厳粛な上陸と「国家行事」レベルの歓迎

 8月17日午後零時半、横浜桟橋に整列してHJを迎えたのは文部省や神奈川県知事、団旗を掲げた青年団少年団代表200人などです。一列に並んだHJは、横浜連合青年団のブラスバンド演奏の中、右手を高く掲げるナチス式敬礼の姿勢で、ドイツ国家・ナチス党歌・君が代を歌いあげました。

 列車で東京駅に到着した彼らを迎えたのは、大日本少年団連盟・帝国少年団協会・東京府青年団・女子青年団・海洋少年団など2500人の団員。プラットフォームには文部次官や東京府知事、東京市長、陸軍大将や海軍大将など、天皇陛下のお出迎えかと思うほどの要人が待ち受けていました。

 日の丸とハーケンクロイツの小旗が振られる中、列車を降りたHJは行進を開始し、空には航空少年団の飛行機が舞いました。その後、宮城(皇居)を遥拝し、大型バスに乗って明治神宮へ向かう沿道も萬歳の声で溢れました。

 入京2日目のスケジュールは、荒木文相、近衛首相、宇垣外相、板垣陸相、米内海相らを訪問するという、まるで政府要人が来日したかのような扱いでした。

 10月17日の大阪では、ひらかた遊園地でアサヒコドモ会主催の「ヒトラー・ユーゲント歓迎日独伊コドモ交歓会」が開かれ、この後も日本各地を回っています。

「美しきファシズム」の象徴となったHJ

 彼らの身体・服装にも注目が集まり、報道記事には写真が多用されました。『大阪朝日』の8月12日香港特電では「六尺近い若人揃い」を見出しに、「羨ましいぞその体躯ドイツ青少年団」と褒めていますし、服装についても事細かに書いています。

 8月17日上陸の際には、幹部は褐色、その他の団員は緑色の上着に乗馬ズボンにブーツ、帝都入りには黒の制服、軽井沢では夏服の半ズボン姿に着替え、伊勢神宮参拝には白い夏礼服、建国奉仕隊との交歓では作業服など、訪問地やイベントに合わせて多彩な服装が紙面を飾り、視覚的な美しさが強調されました。

 他の外交使節の来日では見られなかったほど多くの写真が使われ、「溌溂」「凛々しさ」といった言葉が多用されました。HJは、日本人が目で見る「美しきファシズム」の象徴となりました。

 9月8日にはイラスト入りの森永キャラメルの紙面全段広告が出現し、10月16日にはグリコ株式会社も全段広告「萬歳!ヒットラー青少年団 コノ新聞紙デ栄養菓子グリコノ歓迎帽ヲ作ラウ」を打ちます。

 HJの来日は、多くの日本人にとって初めて本物の西欧人を目にする機会となり、メディアの総動員体制の報道により、子どもたちも「小国民」としてこの国際行事に参加する形になりました。

おわりに

 HJの来日に合わせて、ヒトラーやムッソリーニのブロマイドは飛ぶように売れ、ヒトラーの『我が闘争』や、ムッソリーニの『わが自叙伝』といった翻訳本や関連本がベストセラーになりました。

 ファシスト党歌やナチス党歌のレコード、ドイツ・イタリア国旗の売り上げも急増し、「ショウ・ウインドーには黒シャツや鳶色制服の颯爽たる雄姿を写した両氏の肖像画・写真・ブロンズ像がいたる所に登場」したそうです。


【主な参考文献】
  • 津金沢聡広『戦時期日本のメディア・イベント』(世界思想社、1998年)
  • 中道寿一『君はヒトラー・ユーゲントを見たか?』(南窓社、1999年)
  • 浜本隆志『欧米社会の集団妄想とカルト症候群』(明石書店、2015年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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