「どうする家康」甲斐の名族・武田家はどのように滅亡したのか
- 2023/07/10
大河ドラマ「どうする家康」第26話は「ぶらり富士遊覧」。織田信長や徳川家康を苦しめてきた甲斐の大名・武田勝頼の最期が描かれました。武田方の重要拠点であった遠江国の高天神城を救援できずに落城(1581年)させた翌年(1582年)が、武田家最期の年となります。天正10年(1582)2月1日、武田方の木曾義昌が織田方に寝返ります。
木曾の謀反を知った勝頼は、新府城(山梨県韮崎市)から軍勢を率いて、信州は諏訪に出兵(2月2日)。翌日(3日)、武田を叩く好機と見た織田軍も木曾口・岩村口へ向けて進軍します。2月12日には、織田信忠(信長の後継者)が岐阜を出立。信忠軍の侵攻により、武田方の城は戦わずして、降伏していきました。ついには、江尻城(静岡市)の穴山梅雪までが、勝頼を裏切る事態となります。諏訪にいた勝頼でしたが、梅雪の裏切りにより、撤兵を決意(2月28日)。新府城に戻ります。しかし、勝頼の退却により、武田方の高遠城(長野県伊那市)は孤立。そこを織田信忠の軍勢に攻撃されるのです(3月2日)。この戦いでは、信忠自身が武具を持ち、城の塀際に取り付き「乗り入れよ」と下知したと言います(『信長公記』)。
一歩間違えれば、大将が敵方の標的となりかねない危険な行為ではありますが、それにより、味方(織田方)は奮い立ち、小姓衆や馬廻衆が城に突入。籠城方を圧倒します。織田方の猛攻により、高遠城は同日に落城しました。信州に侵攻した織田軍。一方、徳川家康は駿河から甲斐国に攻め込みます。四面楚歌となった武田勝頼。高遠城がもう少し持ち堪えるかと思いきや、早々と落城したことは、勝頼にとっては誤算だったようです。そうした状況のなか、迫り来る織田・徳川軍。これにどのように対抗するべきか。勝頼は、新府城を放棄し、岩殿山城(大月市)の小山田信茂を頼ることにします(3月3日)。しかし、頼みの綱の小山田もまた離反。勝頼の周辺にいた人々も次々に側から離れていきました。このように、勝頼が追い詰められた状態となってから、信長が悠々と出陣してくるのです(3月5日)。3月7日、甲府に入った信忠軍は、武田の一門や重臣の者を捕え、悉く、成敗しました。
勝頼とその親族は、田野(甲州市)に落ち延びていました。しかしそこも、織田方の滝川一益の軍勢に包囲されてしまいます。最早、逃れることはできないと感じた勝頼は、自刃して果てます。一門の夫人や子供たち40数人も、次々と刺殺されました。そうしたなか、勝頼の若衆・土屋右衛門尉は、弓で敵方を散々射殺した後、主君のあとを追い自害。その活躍は『信長公記』や『三河物語』にも比類なきものと称賛されています。勝頼とその子・信勝の首は、信長に進上されることになります。勝頼親子の首は、都に送られ、獄門にかけられることになるのです。甲斐の名門・武田家はついに滅亡します。
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