「丙午の女」はなぜ忌み嫌われたのか?2026年に蘇る、江戸の恐ろしい迷信

  • 2026/06/12
八百屋お七(月岡芳年画『松竹梅湯嶋掛額』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
八百屋お七(月岡芳年画『松竹梅湯嶋掛額』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
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 皆様は丙午(ひのえうま)の迷信をご存じですか?それは「丙午の年に生まれた女は気性が激しく、伴侶の寿命を縮める」というもので、この迷信が原因で多くの女児が間引かれてきました。次の丙午は2026年……今年は一体何が起きるのでしょうか?

 今回は、江戸に吹き荒れた恐ろしい迷信「丙午の女」の謎と、その背景を紐解いてみましょう。

丙午の女は夫の寿命を縮めるって本当?

 丙午(ひのえうま、へいご)は十干十二支の組み合わせの1種で43番目に当たります。丙と午は両方陽の火の性質を持ち、丙午の年は火災が多いと言われてきました。このように同じ属性が重なることを「比和」といい、良い結果はますます良く、悪い結果はさらに悪化すると伝わっています。暦上では西暦を60で割って46が余る年が丙午となり、60年周期で回ってきます。
※参考:丙午の年(江戸時代以降)
1606年、1666年、1726年、1786年、1846年、1906年、1966年、2026年

 火災が多い江戸において、丙午の年は殊更警戒されていました。丙午の女の迷信もここから派生したもので、科学的根拠はどこにもありません。にもかかわらず当時の人々は「丙午の女は夫を食い殺す」と、本気で信じ遠ざけていたのです。

 この迷信が完全に定着したのは江戸中期で、丙午に当たる弘化3年(1846)には沢山の嬰児が間引きされました。丙午の年に子供の出生数が激減することは統計データが証明しており、共同体の迫害を恐れ、産み控えをした女性の多さを表しています。

 当初は男女問わず丙午生まれが忌避され、「丙午生まれは嫁(婿)にとるな」が合言葉だったとか。

実は丙午生まれじゃなかった 八百屋お七の真実

 丙午の迷信に拍車をかけた存在と聞いて思い浮かぶのが八百屋お七です。

 江戸本郷の八百屋の娘として産声を上げたお七は、天和2年(1683)12月28日の天和の大火で焼け出され、両親と共に正仙院の境内に避難します。その時知り合った寺小姓・生田庄之介と恋に落ちるも、店の再建と同時に寺を去ることが決まり、二人は引き離されてしまいました。これが悲劇の発端。

 日に日に庄之介への未練を募らせていったお七は、また火事になれば寺で暮らせると思い余って付け火をします。しかし火はすぐ消し止められてあっさり捕まり、最後は鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処されたのでした。

八百屋お七(『江戸名所図会』 より。出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ)
八百屋お七(『江戸名所図会』 より。出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ)

 お七の事件は戯作者の井原西鶴によって脚色され、『好色五人女』の1人として世に出回りました。これが大ヒットを飛ばし、浄瑠璃や歌舞伎、芝居の題材となります。うら若い娘が恋人に会いたい一心で罪を犯し、想いを遂げられず火あぶりにされる悲恋物語は、実話であるからこそ一層人々の涙を誘いました。

 浄瑠璃作家の紀海音は『八百屋お七』にて、お七を寛文6年(1666)の丙午生まれとし、為長太郎兵衛や馬場文耕もそれに追随しました。しかし井原西鶴の伝記では享年16歳となっており、この記述が正しければお七の生まれ年は寛文8年(1668)となります。即ち、お七が丙午の女というのは捏造だったのです。

 話をより盛り上げる為のアレンジにせよ、丙午の女と付け火を関連付ける発想が、お七の実像を歪めてしまった背景は否めません。付け加えると正確な生没年は判明しておらず、延宝4年(1676)にお七が谷中感応寺に掛けた額に11歳とあることから、丙午の女説を推す人もいます。実際はどちらなのでしょうか、気になりますね。

関東大震災のドサクサで戸籍を書き換え

 丙午の女が夫を食い殺すというのは迷信、江戸のフェイクニュースに過ぎません。しかし世間の人々は丙午の女を忌み嫌い、ネガティブなイメージを被せてきました。「跳ねられた意趣に丙を吹聴し」は江戸時代に流行った川柳。自分をフッた女を逆恨みした男が、「アイツは丙午の女だからな」と、でまかせを流したというのです。

 当時の女性にとって丙午の悪評は致命的。噂が広まったら最後婚期は遠ざかり、一生独身を貫かざるを得ませんでした。縁談を断られ、涙で袖を濡らした人も多かったとか。それでも成人できたなら運が良い方で、地方の農村では堕胎される赤子や、産まれてすぐ殺される赤子が後を絶ちませんでした。なお堕胎と間引きを戒める浄土真宗が盛んな地域では、丙午の間引きの件数が抑えられていたそうです。

 明治以降もこの迷信は根強く残りました。明治39年(1906)の丙午には、前年に比べ出生数が約4%減少しています。周囲の偏見を恐れ、子供の出生届を前後の年にずらして提出する親もいました。

 文豪の夏目漱石は『虞美人草』にて、主人公の純情を弄ぶ悪女のヒロインを「藤尾は丙午である」と表現。坂口安吾の本名・炳五は丙午に生まれたことに由来し、親類たちは口を揃えて「男でよかった」と安堵したそうです。

 丙午の迷信を気に病んだ女性が婚姻難から自殺に追い込まれる事件も相次ぎ、深刻な社会問題化しました。さらに「出生年偽装」に拍車をかけたのが、大正12年(1923)の関東大震災です。地震が引き起こした大規模火災によって役所の戸籍が焼失。これを機に、当時17歳前後になっていた明治39年(丙午)生まれの娘を持つ親たちが、娘の出生年を偽って戸籍を再登録するケースが続出したと言われています。娘の将来を慮る親心とはいえ、なんともやりきれない話です。

 その60年後、昭和41年(1966)の丙午も状況はほぼ同じ。出生数は前年比25%も下がり、苦渋の決断で妊娠中絶や産み控えをした、女性の多さをほのめかします。

 丙午生まれの有名人といえば、女優の小泉今日子さんや鈴木保奈美さん、財前直見さんや三田寛子さんなど。皆さん成功をおさめており、事実無根の迷信であることがわかりますよね。なんと秋篠宮妃紀子様も丙午生まれ。多くの日本人に先駆けて、迷信を断ち切ってくれた皇室に胸が熱くなります。

 令和8年(2026)は60年ぶりの丙午。現在の所産み控えの兆候は確認できないので、妊娠中の方は元気な赤ちゃんを産んでください。

おわりに

 以上、丙午の迷信の真偽を掘り下げてみました。当初は丙午生まれの男女が避けられていたのに、江戸中期を境に女性に焦点が絞られていったのは、『好色五人女』などのカルチャーの影響でしょうか?メディアの功罪を思い知らされます。

【参考文献】
※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
読書好きな都内在住webライター。

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