大河ドラマ「べらぼう」 幕末の能吏・川路聖謨は田沼意次をなぜ高く評価したのか?

 大河ドラマ「べらぼう」第31回は「我が名は天」。

 同ドラマにおいては渡辺謙さん演じる老中・田沼意次がよく登場してきます。意次と言えばこれまで「賄賂政治家」というイメージで語られることが多かったのですが(勿論、近年はその見直しも進んでいます)、ドラマの意次はそれとはまた別の側面も描かれています。では、意次は同じ時代を生きた人々にはどのように見られていたのでしょうか。

 意次は9代将軍・徳川家重(吉宗の子)の小姓となり、以後、出世していくことになるのですが、家重は意次のことを「またうとのもの(者)」と評しています(江戸幕府の公式史書『徳川実紀』)。「またうと」とは「またうど」のこと、正直とか律儀という意味です。つまり意次は正直者・律儀者だというのです。家重は子の家治(10代将軍)に意次は正直・律儀者なので「こころを添て召仕」ることを遺言したのでした。

 家治は父の遺言を守り、意次を御用取次、側用人として引き立てたのです。また家重の側用人を務めていた大岡忠光は意次を「発明」と語っています。「発明」とは賢いという意味です。江戸時代の落首にも「はつめいは 人に田沼ぬ 智ゑ袋 名も徳もとれ 主殿も家頼も」と意次は評されています。「主殿」というのは意次のことですが、ここでも意次は「はつめい」(発明)と認識されているのです。身近で意次に接した人々のみならず、庶民も意次のことを賢明と見做していたのでした。

 意次の時代から少し後になりますが、幕末においても意次を高評価する人もおりました。大坂町奉行・勘定奉行などを歴任し、慶應4年(1868)に自殺した川路聖謨(1801〜1868)です。川路の時にも田沼時代は賄賂が蔓延り、意次は良からぬ人との認識があったのですが、川路はそれを意次にとって「気の毒」とし「よほどの豪傑」「正直の豪傑」と弁護したのでした。

 意次は美濃郡上一揆(1758年)の処理を行いますが、それを見事に果断に処理したとして、川路は意次を「豪傑」と評したのです。よってこの場合の「豪傑」とは武勇に優れた人という意味ではなく、才知が優れているということでしょう。意次に限らず、世の人から誤解を受けている政治家というのは他にも、そして現代にもいると思います。


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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。 武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。兵庫県立大 ...

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