戦時下の食卓革命? 代用食にイモ・虫・魚の頭、さらには食糧犯罪も…
- 2025/08/27

「南瓜も薩摩芋の顔も一生見たくない」
戦中戦後の食糧難を経験された方はこのようにおっしゃいます。当時、日本国民は何を食べて腹を満たしていたのでしょうか。
戦中戦後の食糧難を経験された方はこのようにおっしゃいます。当時、日本国民は何を食べて腹を満たしていたのでしょうか。
節約節約
戦争になったら国は国民に物資や食料の増産を求め、同時に節約も迫ります。第二次世界大戦が始まった昭和14年(1939)4月、日本政府は米穀配給統制法を公布し、戦時中の食糧不足に対応しようとしました。しかし3年後の昭和17年(1942)には早くも需給関係の実情に合わず、新たに食糧管理法が制定されます。法律を作っただけでは足りず、政府は様々な通達を出したり冊子を発行したりして、なぜ節約しなければならないのか、また実践的な節約法を説きました。
『戦時食生活指針』と言う小冊子があります。A5判99ページ、「昭和十九年五月上旬開催 戦時食生活展録」と印刷してあり、この展覧会場で配られたようです。まず国の実情を述べます。
「私たち国民の一ヵ年の米消費合計は八千万石となります。しかし我が国の産米は平年作で六千万石であり、二千万石の不足です。この不足分を朝鮮や台湾の外地米及びタイやベトナムなどの外米で補おうとすると、それを運ぶのに一万トン級の船が三百隻必要です」
ここで代替え論が出て来ます。
「これらの輸送能力を軍需品輸送に振り向けたとしましょう。石炭を運べば軍需工場は大増産、アルミなら飛行機二千五百機分にあたる百二十万トンが、鉄鉱石なら三千万トンが運べます。石油なら一万トン級巡洋艦百隻が動かせます」
数字を挙げて具体性を持たせます。そして最後は情に訴えます。
「極寒のアッツ島・極熱のガダルカナル・タラワ・マキン島の、言語に絶する苦闘を重ねる将兵の偉業を思い断乎節米を心がけよ!二十六日間の芋食で二万五千機に相当。米は飛行機だ弾丸だ、国民は芋を食え!」
代用食の提案
かと言って人は芋ばかり食ってもいられません。様々な米の代用食が提案されます。初めのうちは、うどん・すいとんなどの小麦粉系や、雑炊など、まともな代用食でしたが、すぐに薩摩芋・馬鈴薯(じゃがいも)など芋が取って代わり、やがて怪しげな代用食が出回り始めます。人はさまざまに工夫するものです。薩摩芋の粉に小麦粉・鰯粉・海藻・ビール酵母などを混ぜ込んだ芋パン。トウモロコシ粉・高粱粉・馬鈴薯粉・小麦粉から作った興亜パンなどですが、すでに小麦粉もフスマ入りの黒い粉で、薩摩芋や馬鈴薯も収穫量優先の水っぽく不味いものでした。
乾麺を茹でて米粒ほどの大きさに切り、小麦粉をまぶして蒸し上げた疑米(ぎまい)なる物も作られます。麺の感じが無くなり、ややご飯っぽくなるのでカレーや寿司にして食べましたが、却って手間じゃないでしょうか。
月3回の主食配給サイクルは一応は維持されていましたが、昭和17年(1942)以降はトウモロコシのひき割りを混ぜた物や、炊き減りを少なくした五分搗米、さらには玄米のまま配給されます。少ない米の食い延ばしに警視庁までが研がないで炊く「国策米」を提案します。
民間で流行ったのは「楠公米」で名前の通り、楠木正成が籠城戦のおりに考えついたと言うもの。米を炒って米の量の3倍の熱湯の中に入れて時間をかけて焚き上げます。確かに米が水分を良く含んで量は増えますが、美味いものではありませんでした。
一番手っ取り早い嵩増やしは「かて飯」、つまり芋や大根などを焚き込んだものですが、こうなると戦国・江戸時代の飢餓飯と変わりません。
その他推奨の戦時食
魚は捨てるところはなく、頭も骨も内臓も食べられるそうです。魚の頭・内臓などをそのまま包丁で細かく叩いて、小麦粉・馬鈴薯と合わせてコロッケにする…。また、魚の骨を塩と共に壺に入れておくと良い味の魚塩汁が出来るので醤油の代用に持って来いだそう。これは魚醤ですから現在でも立派な調味料です。血液・内臓から塩辛も作ります。魚の血は栄養があるから小麦粉に吸い取らせ、味噌汁・シチュウの身にします。毛虫の毛を焼いてこそげ落し、その後に炒って食うと栄養価が高いとか、コオロギの羽をむしって炒めて食っても良いと言い出します。これには裏があって、食事に栄養学的・科学的との考えを持ち込んだのは日中戦争のころからです。当時、肺結核は国民病で、徴兵検査を控えた青年の感染者が多かったのです。
検査者全員の甲種合格を目指した軍部と厚生省が音頭を取り、タンパク質・カルシウムを補う昆虫食を奨めました。昭和18年(1943)5月号の雑誌『生活科学』には、「食用になる虫」が精密な絵とともに載っています。ざざ虫やイナゴ・孫太郎虫・蚕の繭・ゲンゴロウ・黒雀蜂の幼虫など現在でも口にする虫たちですから、闇雲に選んだのではありません。
高級飲食店はご法度、食料犯罪も…
このご時世に高級飲食店や茶屋・待合などはとんでもないと「待合は之を休業せしめ、また高級興行歓楽場等は一時之を閉鎖し」とされます。高級料理店は休業ですが、一般飲食店は営業可です。高級店でも内容が享楽的でないものはOKです。芸妓置屋や芸妓、カフェ・バーの類も一応全て休業ですが、別途措置も講じられました。一律に全部ダメにしてしまっては、高級将校や政治家も芸妓を挙げての宴会は出来なくなりますからね。
この措置により廃業させられた芸妓は6万名・女給は5万7千名に上り、彼女たちは戦力増強面へ振り向けられ、施設は改造して工員宿舎になりました。昭和19年(1944)3月から、東京歌舞伎座・大阪歌舞伎座・京都南座など19劇場は休業となります。3月末には松竹歌劇団は解散し、同時に松竹芸能本部女子挺身隊として工場動員されます。宝塚歌劇団も無期限休演、団員は女子挺身隊を結成します。
食料犯罪が多発
また、食料品の逼迫は犯罪を誘発しました。『経済資料第八十七号食料関係犯の調査』昭和19年8月によると、同年の2~3月以降、魚類・蔬菜類の配給量が乏しくなったために食料関係事犯が激増したとあります。特に問題になっているのは流通過程での抜き取りです。まず、統制経済下での生産出荷組合職員の、身内知り合いを優先する情実配給・現物横領が頻発します。町会職員や隣組長などによる配給通帳や配給券の偽造・変造により、組合員へ渡るはずの食料が横取りされました。
食料営団従業者の地位を利用した配給米の窃盗とこちらは刑事事件になります。食料取扱い人夫・運搬人夫も荷抜きをしますし、魚市場では積み下ろし作業員の「軽子(かるこ)」が作業中に鮮魚を盗んで隠しておき、終業時にこれを持ち出します。
このようにただでさえ乏しい食料が、その運搬業務・配給業務に携わる人間によって好き放題に抜き取られたのです。
おわりに
『戦時食生活指針』には節約数え歌も載っています。- 一つとやぁ、火焚き稽古も御奉公上手に焚きましょ国のため。
- 二つとやぁ、ぶつぶつ蒸気が吹きだせば急いで火をひけ蓋とるな。
- 三つとやぁ、水気は燃料の損になる乾いた薪を使いましょう。
この後、8番まで続きます。
【主な参考文献】
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