【変化朝顔】奈良から令和へ、1200年の時をかけて進化した朝顔の変遷記
- 2026/01/21
朝顔は、英語で「Japanese morning glory」と呼ばれるほど、日本で独自の進化を遂げた園芸植物です。江戸時代の二度にわたる熱狂、明治・大正から昭和初期の第三次ブームを経て、現在は「第四次ブーム」が始まっていると言われています。
なぜ、これほどまでに日本人は朝顔に魅了され、時には財を投じ、時には人生をかけてまで「見たこともない花」を追い求めたのでしょうか。その熱狂の歴史と、江戸の園芸文化の深淵を覗いてみましょう。
なぜ、これほどまでに日本人は朝顔に魅了され、時には財を投じ、時には人生をかけてまで「見たこともない花」を追い求めたのでしょうか。その熱狂の歴史と、江戸の園芸文化の深淵を覗いてみましょう。
【目次】
暮らしの安寧が育んだ、朝顔栽培のルーツ(奈良〜江戸初期)
朝顔のルーツは意外にも遠く、中南米原産とされています。そこから世界中へ広まり、日本へは今から約1200年前の奈良時代、中国から遣唐使の手によってもたらされたという記録が残っています。しかし、当時の朝顔は現代の私たちが目にするような華やかな姿ではありませんでした。三つに尖った葉(主披辺)に、丸く小さな青い花が咲く、ごくありふれた野草に近い姿だったのです。驚くべきことに、渡来当時の朝顔は観賞用ではなく「薬草」として認識されていました。種子は「牽牛子(けんごし)」と呼ばれ、非常に強力な下剤として重宝されたのです。元禄時代発行の農業書『農業全書』においても、朝顔は「草花」の項目ではなく「薬草」の類に分類されています。本文中では「薬屋に売れば利益になる」「屋敷の周りに空き地があるなら植えておくべきだ」と、実利的な栽培が推奨されていました。
ところが18世紀半ば以降には様子が変わって来ます。戦乱が遠のき、都市に定住した人々は、花を愛でる心のゆとりを持ち始めました。特に新開地として新しい住民が集まった江戸では、主筋や親族・得意先を自家へ招く社交活動が活発化。家の体裁を整えるため、障子や襖などの建具に気を配り、庭には池を掘り、灯籠を立てて美しくします。こうした文化的な営みは、社会の安定と一定の経済力が庶民にまで浸透した証でもありました。
寛永時代(1624~44)の椿、元禄(1688~1704)の躑躅、宝永~享保時代(1704~1736)の楓など、17世紀以降は庭木を中心に何度か栽培植物のブームが起きています。しかし庭木はそれなりの庭園を持つ上層の武士や町人に限られた人々のブームでした。
大名屋敷なら「池を掘り、山を作り…」と立派な庭園が造れますが、朝顔の鉢植えであれば、庭もない九尺二間の庶民の長屋でも軒先に置けます。隠居や単身者、家を継げない二男・三男の間にも愛好者が増えました。一年草の鉢物として手軽に買って育てられる朝顔ブームは、花卉栽培の裾野をぐっと広げました。
この江戸都市部の比較的限られた地域での栽培人口の多さが、多種多様な「変化朝顔」を生み出す土壌となったのです。
江戸の街を席巻した、奇跡の「変化朝顔」ブーム
我が国にやって来たばかり当初の朝顔は淡青一色でしたが、長い年月をかけて安土桃山時代には白花が、元禄時代には紺や赤の朝顔が現れます。そして18世紀から19世紀初頭にかけて、朝顔の色や形は急速に変化・増加して行きました。こうした朝顔ブームを引っ張ったのが、これらの「変化朝顔」です。変化の様相は、現代の私たちが想像する「朝顔」の概念を根底から覆すものでした。まず「花」の変化です。
- 形状の変化:桔梗咲・牡丹咲・獅子咲・切咲など
- 花色の変化:桃色・濃茶・淡藤・桜鼠など
- 模様の変化:覆輪・絞り・染め分け・刷毛目など
- 花弁の変化:袴・鳥甲・撫子・細切など
と実に様々です。これに輪をかけたように葉にも変化が求められました。
- 葉の色模様の変化:青・萌黄・水晶斑入り・松島など
- 葉質の変化:顰(しかみ)・縮緬・抱縮緬・桔梗渦など
- 葉の形の変化:大黒・蜻蛉笹・蝙蝠南天・飛龍など
など、花以上に変種が賑わいます。
「とにかく変わっていれば良い、珍しければ良い」という風潮の中、人々は夢中になって変わり種を求め、園芸の袋小路へと突き進んでいきました。
しかし、この変わり咲きブームはあまり長くは続かなかったようです。江戸の町名主で考証家でもあった斎藤月岑(げっしん)は、その著書『東都歳時記』の中で、文化・文政期(1804~30年頃)のブームは短期間で終わったと書いています。
「多くは異様のものにして愛玩するに足らず。されば4、5年の間にして文政の初めより絶えしもうべなり」
(多くはあまりに異形で、愛でる価値がない。だから四、五年もすれば飽きられ、文政の初めには廃れてしまったのも当然だ)
あまりに奇をてらいすぎた造形は、人々の美意識の限界を超えてしまい、飽きられるのもまた早かったのでしょう。
番付・朝顔市・仕掛け人。熱狂を支えたプロデューサーたち
現在でも「入谷朝顔まつり」として開かれている朝顔市ですが、江戸時代にも下谷・浅草・深川など各所で朝顔市が開催されていました。しかし、この朝顔ブームは自然発生的に生まれたものではなく、どうも仕掛け人がいたようなのです。文化・文政期の第一次朝顔ブームを決定づけたのは、皮肉にも文化3年(1806)3月の火事「文化の大火」でした。この大火で焼け野原となった下谷御徒町は、下級武士である「御徒組」の屋敷があったところです。住まいを失い、焼け跡を整理した武士や植木職人たちが朝顔を植えたところ、土質が変わったからでしょうか、変わった形の花や葉を持つものが生えてきました。市場にこの変わり種を出してみると、折からの朝顔需要に乗って大評判となり、文化・文政期の第一次朝顔ブームとなります。生活に困窮していた下級武士たちも良い内職を得ました。
その後、一旦は沈静化したブームをを再び再燃させ、嘉永・安政期(1848~60年頃)の第二次朝顔ブームを仕掛けたのは植木屋・成田屋留次郎です。かつては数十両の高値で取引された変わり朝顔。自らを”朝顔師”と名乗った留次郎は「夢よ、もう一度」とばかりに大規模なプロモーションを展開します。
珍しい朝顔が咲いたと聞けば、遠路を厭わずに駆けつけて種を手に入れ、大切に育てあげます。そして変化朝顔を絵師に書かせては何冊も冊子を出版。もちろん江戸っ子の好きな番付も発表させます。花合わせ会も開催し、花好き粋人を招待して評判を取りました。
留次郎のこうした活躍により、この時期には実に千種以上の変化朝顔が作り出されたそうです。
美しき「出物」の宿命。陰に潜む大量廃棄
変化朝顔の世界には、美しさの代償とも言えるシビアな現実が存在します。品種維持の方法で「正木(まさき)」と「出物(でもの)」の二つに分けられます。「正木」は、大輪朝顔のように比較的単純な変化を持つもので、咲いた花から次の世代の種を採ることができます。これに対して「出物」は、とても朝顔とは思えないような複雑で芸術的、鑑賞価値も高く高価ですが、その代償として生殖能力を失っていることがほとんどです。つまり、「出物」からは種を採ることができません。
では、どうやって子孫を残すのか。そのためには親木(おやぎ)と呼ばれる採種用の兄弟株から取った種を使います。これを大量に撒くと、そのうちの一定の確率で「出物」が出現します。栽培家たちは、子葉が出た段階で見込みがない苗は容赦なく間引いていきます。そして選りすぐった苗を育てるのですが、それでも変わり朝顔が咲くのはほんの一握りにすぎません。つまり、高額で売れる花の陰に、大量に廃棄される花もあったのです。
一株の変わり朝顔を作るのに、多くの資本と労力を必要とする大量栽培・大量廃棄を行うのは素人ではできません。種から育てた普通の朝顔を喜んで楽しむ庶民も多かったでしょうが、種を残さぬ変わり朝顔を高値で買い求め、贈り物として貰った方も、数日楽しんだ後には惜しげもなく捨ててしまう。そのような扱われ方をしたのです。
おわりに
自然界に青いバラは存在しませんし、同様に黄色い朝顔も存在しません。“淡黄”や“極黄采(ごくきざい)”など、記録には黄色朝顔がありますが、どちらも淡いレモン色程度です。現在ではバイオテクノロジーの進化により、遺伝子組み換えによる青いバラ「アプローズ」が誕生しました。第四次朝顔ブームの現在、黄色朝顔は誕生するでしょうか。科学の力と、江戸から続く情熱が交差する現代において、その花が私たちの前に姿を現す日は、そう遠くないのかもしれません。
【参考文献】
この記事を書いた人
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。
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