豆腐の歴史 生まれは中国、江戸時代にはレシピ本もバカ売れで一大ブーム!
- 2024/11/25
昔から「芝居の演し物に困ったら忠臣蔵、ご飯のお菜に困ったら豆腐」と言うそうです。柔らかな口当たりで幼児食・病人食にも重宝、栄養豊富でこれと言った味も無く、どんな味付けにもなじむ優れモノ。江戸時代には『豆腐百珍』と言うレシピ本も出版され、将軍様から庶民にまで愛された食材です。
現在では“tofu”と世界語にもなった豆腐はいつから食べられていたのでしょうか。
現在では“tofu”と世界語にもなった豆腐はいつから食べられていたのでしょうか。
発明したのは漢の高祖劉邦の孫?
豆腐発祥の地はやはり中国のようです。紀元前2世紀、前漢の淮南王劉安(漢の高祖劉邦の孫)が創り出したとの物語があります。もっともこの後、豆腐に関する文献は唐の時代まで見当たらないので、実際には唐代の中期頃の製品のようです。劉安に敬意を表してでしょうか、今でも豆腐の別名を淮南術・淮南佳品と呼んだりします。「佳品」はともかく、なぜ「術」などと言う字が使われるのか?劉安は音楽や文学を好む知識人でした。その気風を慕って多くの文人墨客が食客として劉安の屋敷に留まります。その中には方術士もおり、劉安は方術にも関心を持っていました。
「あの硬い大豆からこんなに柔らかな白い食べ物が出来る。これはきっと劉安様が“方術”を以って拵えなさったに違いない」
との伝説があるのです。
日本に伝わった時期についてもさまざまな説がありますが、奈良時代(710~784)に遣唐使が伝えたようです。寿永2年(1183)の春日大社の神主の日記に、「春近唐符一種」が供物として供えられたとあります。
春近と言うのは人の名前で、春日大社に仕える神人か興福寺の僧だったと思われます。この“唐符”が豆腐を指しているのですが、奈良・平安時代には貴族や僧侶たちの食卓には上っていました。
それから100年ほど経ったころ、弘安3年(1280)日蓮宗の開祖・日蓮の日記にも「すり豆腐」の言葉が出てきます。そのころ日蓮は胃腸系の病気を患っており、身延山で療養していましたが、地元の有力者たちが偉いお坊様に召しあがっていただこうと、滋養に富みお腹にも優しいすり豆腐を送ったのを日記に書きました。
村の豆腐屋
鎌倉・室町と豆腐は奈良・京都から全国へ広まって行きました。建武2年(1335)には備中新見の荘で、正月の“百姓節会”用の「唐布料」として大豆三斗が年貢から免除されています。この農民を慰労するための節会には領主が酒や料理を提供するのですが、税の免除の形で農民に豆腐を作らせ、宴会に供しました。おなじく応永9年(1402)新見の荘の支出帳にも「22文 豆腐・小魚」とあり、このころには市場でも豆腐が売られていたようです。
また、永享2年(1430)紀州粉河寺の支出帳簿にも「50文 豆腐2」とあり、その調達先として近辺の東野村の唐符屋と書かれていますから、豆腐製造の技術は広く知られていたようです。ただ「唐布」や「唐符」などまだ表記は一定していません。
室町時代の『庭訓往来』には豆腐汁を食べていたと書かれており、室町時代後期の『七十一番職人歌合』には、豆腐売りの姿が書かれていますし「大豆二升を水に浸し一夜おきて轢き糊のごとくにし、水六升を入れて煮沸かし・・・」と作り方まで詳しく述べられています。
ただ、豆腐を食べる習慣が村にまで広まったと言っても、まだまだ上層農民に限られており、石臼を持つ有力者が同じく上層農民相手に物日などに限って作っていました。
庶民の味方 豆腐
江戸時代でも初期のころはまだ豆腐は贅沢品でした。寛永19年(1642)には「農民は豆腐を食してはいかん」との覚え書きがでています。これは大豆を挽く作業が贅沢と見なされたようで、他にもうどんや蕎麦・饅頭なども禁止されています。しかし時代が下り、石臼が一般に普及し、粉挽きの作業に水車など人力以外の労力が用いられるようになると、うどんや蕎麦の広まりと共に、豆腐も手ごろに買えて美味い食材として庶民に親しまれます。
豆腐屋があちこちに出来てくると、最初は「贅沢である」と庶民には食べるのを禁止していた幕府も統制に乗り出します。宝永3年(1706)には「近年穀物相場が高騰し、大豆も値上がりしたので豆腐も高かった。しかし相場も落ち着いてきたのに豆腐の値段が高止まりなのは怪しからん」として、南小伝馬町付近の7人の豆腐屋が奉行所に呼び出され、“逼塞の刑”が言い渡されます。これは日中に出歩くのを禁止する刑で、さらに他の豆腐屋十数人も呼び出され、値下げを約束してやっと解放されました。
テリトリー争いも熾烈だったようで、豆腐屋の組合である“豆腐仲間”では、店売りの場合、豆腐屋の住居一町四方に1軒と決められます。天秤棒を担いでの町売りは武家方・寺町以外での販売は認めないとされました。得意先へ豆腐を納めた後、残った豆腐を他の豆腐店のテリトリー内で売ったとして襲われ、商売道具や売上金を奪われる事件も起きています。
庶民の需要が高い豆腐でしたが、利益の薄い商売は楽では無かったのです。
将軍様も平賀源内もオランダ商館長も
八代将軍・徳川吉宗も豆腐は良く食べていたようです。ある時に料理人が吉宗に豆腐料理を供しました。一口食べた吉宗は「これは石川大豆でつくった豆腐ではないか」と御下問。確認したところその通りだったので一同感服したとか。 また、平賀源内は豆腐に味噌を塗って炙った豆腐田楽が大好物でした。江戸の将軍家への表敬訪問に訪れたオランダ商館長の一行も、帰り道の京都で名物の祇園豆腐を食べている絵姿が残っています。
慶長8年(1603)に出版された『日葡辞書』でもすでに様々な豆腐が紹介されています。この辞書は日本イエズス会が長崎で出版したものですが、外国人向けに豆腐の事を細かく紹介しています。
いわく「食物の一種、大豆から生チーズのような格好に作る」「加工品として油揚げがある」また、料理として「田楽は味噌を付け串に刺し炙ったもの」「湯豆腐は鍋で煮て掛け汁を添えたもの」数え方は一丁二丁、女房言葉では“壁”と呼ぶなど、丁寧に説明しています。
これは豆腐が当時の日本社会に広く浸透していた事の証しです。
おわりに
本格的に、庶民の食べ物として取り入れられるようになったのは、江戸時代半ばからで天明2年(1782)に出版された豆腐料理の本『豆腐百珍』は、日本初のレシピ本と言われ、爆発的に売れました。 おかげで翌年には『豆腐百珍続編』が、翌々年には『豆腐百珍余禄』が出版され、『甘藷百珍』や『卵百珍』『大根百珍』など“百珍物”ブームが巻き起こっています。
【主な参考文献】
- 原田信男「豆腐の文化史」岩波書店/2023年
- 河合敦「テーマで歴史探検」朝日学生新聞社/2016年
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