流転の皇族・北白川宮能久親王…徳川の盾、禁じられた恋、台湾での戦病死まで
- 2026/04/09
- ※本記事は一部にプロモーションを含みます
この宮様は太平の世であれば徳川家菩提寺・寛永寺貫主として、また日光輪王寺宮門跡として尊敬され、和歌の道などにいそしみながら穏やかな生涯を送れたはずです。しかし、時代に翻弄されて一時は朝敵となり、最後はマラリアに侵され、南方の地・台湾で戦病死なさいました。その波乱に満ちた足跡を辿ります。
徳川の盾として担がれた「輪王寺宮」
北白川宮能久(よしひさ)親王は、弘化4年(1847)4月1日、伏見宮邦家親王の第九王子として生を受けます。仁孝天皇の猶子(ゆうし)となったことで、孝明天皇の義弟、明治天皇にとっては義理の叔父にあたるという、非常に高貴な血筋でした。安政5年(1858)10月に親王宣下を受け、翌月に得度して11歳で僧籍に入ると、慶応3年(1867)5月には江戸の上野寛永寺に入山。20歳の若さで寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承し、「輪王寺宮」と尊称されるようになります。
寛永寺の山号が「東叡山」であることからもわかるように、この寺は江戸において京都の鬼門を護る比叡山延暦寺の役割を期待して建立された寺です。その座主に皇族を迎えるのは、建前上は「その護りを一層強固にするため」ですが、幕府の本音は別にありました。
一つは、朝廷に対する実質的な「人質」としての意味。そしてもう一つは、西国諸藩が都を押さえて天皇を担いで攻めてきた際、幕府側も皇族である輪王寺宮を擁立することで、軍事的な正当性を保ち「逆賊」と呼ばれるのを避けるためでした。
この高い地位が、若き宮様を逃れられない幕末明治の動乱の渦へと引きずり込んでいくのです。
江戸城無血開城の陰で翻弄された宮
慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜が江戸へ逃げ帰ります。これを追って、有栖川宮熾仁親王率いる東征軍(新政府軍)が江戸へ迫りました。
3月、輪王寺宮は慶喜からの切実な懇請を受けて、慶喜の助命と東征中止を嘆願するために、駿府城にいた熾仁親王を訪ねます。ここまでは史実のようですが、その後の経過については、時代背景を感じさせる皮肉な説がいくつも語り継がれています。
- 江戸城無血開城は、勝海舟と西郷隆盛の談判で決まったのではなく、岩倉具視の書いた筋書き通りだった。
- 輪王寺宮は熾仁親王との話し合いが功を奏したと思っていたが、すべては岩倉の意を受けた西郷と、勝の意を受けた山岡鉄舟の間で決まったことで、輪王寺宮は子供の使いをさせられただけだった。
- 輪王寺宮は都へ上って明治天皇に嘆願するつもりだったが、それでは無血開城は宮の手柄になってしまう。そうすれば宮が助けた徳川家を迂闊に処分できなくなるので、それは阻止したいとの新政府側の思惑があった。
などです。
今となっては全てが歴史の闇の中ですが、輪王寺宮が自分の働きで江戸を救ったと思い、戻ってみれば江戸の街はすでに無血開城の喜びに溢れており、宮は呆然とするだけでした。
上野陥落と決死の脱出
この後の宮の心の動きが今一つわかりません。父や熾仁親王からは京都へ戻るように説得されますが、宮はこれを拒絶し、江戸に留まりました。宮がいなくなれば、彰義隊が立てこもった上野は戦場となるので、旧幕臣や豪農・豪商たちが宮に留まっていただくように嘆願書を出したからとも、これまでの徳川の厚遇に報いるためであったとも言われます。しかし、運命の日がやってきます。5月15日、大村益次郎率いる官軍が上野の山を総攻撃。寛永寺は炎に包まれ、宮も戦火の中を脱出します。5月25日まで江戸市中で息を潜めていた宮の一行は、医師の姿に変装して監視を潜り抜け、品川沖の榎本武揚の幕府艦隊へと辿り着きます。
軍艦「長鯨丸」の上で榎本が問い、宮は答えます。
榎本:「有栖川宮(官軍)のもとにお送りすることもできます。それでも東北へ行かれますか?」
宮:「今は官軍を頼っても安全とは思われない。しばらく東北で世が落ち着くのを待ちたい」
この時点ではまだ、積極的に徳川に味方するというよりは、身の安全を優先した消極的な選択だったのかもしれません。
ところが、宮が身を潜めている間、官軍が宮の妹君が嫁いでいた紀州徳川家の別邸を襲い、宮を探しているという報せが入ります。宮の心に新政府への疑心が芽生えても不思議ではありません。宮は彰義隊隊長・天野八郎に薩長討伐の令旨を下したり、日光山に隠されていた錦の御旗を渡したりしたとの話もあります。
また、榎本に詔勅の形式で薩摩討伐の文書を下したとも言い、この説の場合、宮は朝廷に反旗を翻して旧幕府に味方しています。
お騒がせ宮様。列藩同盟の盟主になり、外国婦人と婚約も…
宮の一行は、2週間かけて常陸国平潟港に着き、7月12日に陸奥国白石城へ入り、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されます。この頃には宮自身も「仏敵朝敵たる新政府を退治せん」と激しく新政府に反感を表しています。東武天皇として即位したとの説もありますが、これは怪しげな説です。しかし、やがて奥羽越列藩同盟は瓦解し、榎本たち旧幕臣はさらに蝦夷の地を目指すものの、宮は仙台藩と共に降伏。11月19日に京都へ送られた宮は親王の身分を剥奪され、1年間の蟄居生活を申し付けられました。
明治3年(1870)には宮に転機が訪れます。明治天皇の命で還俗し、プロイセン(ドイツ)に7年間の留学を命じられ、ドイツ語と軍学を学びます。ドイツ軍で訓練を受けたのち、プロイセン陸軍大学校に入学し、ここでも軍学をしっかりと学びました。
「国と朝廷のために軍人として役立とう」との志だと言いますが、23歳から7年間の留学は長すぎます。明治政府の本音としては、「一度は朝敵となり、高貴な身分であった宮を日本に置いておくと、反政府勢力に担がれる恐れがある」という警戒心にありました。長すぎる留学は、一種の国外追放だったのです。
この留学中に弟の北白川宮智成親王が亡くなり、北白川宮家を相続しますが、宮はまたしても世間を驚かせます。明治9年(1876)にドイツ貴族の未亡人と恋に落ちて婚約を発表、翌年には明治政府に結婚の許可を申請したのです。皇族が外国の、しかも未亡人と結婚するなどとんでもない話として政府はパニックに陥ります。
岩倉具視らが必死の説得にあたり、無理やり帰国させることでこの恋は成就しませんでしたが、宮は帰国後に再び謹慎を命じられます。
台湾で戦病死
謹慎が解けた後の宮は、一転して軍人として職務に邁進します。かつての「お騒がせ」な面影は消え、部下を思いやる誠実な軍人として評価を高めていきました。私生活では明治11年(1878)に山内容堂の娘と結婚・離婚を経て、伊達宗徳の娘を後妻に迎え、多くの子女をもうけました。帝国陸軍で少将・中将と順調に昇進。明治28年(1895)、48歳で第四師団長として日清戦争後に日本に割譲された台湾の治安維持のために出征します。北から南に清国残党を征伐しながら進軍しますが、作戦完了直前にマラリアに倒れ、同年10月28日に薨去(こうきょ)されます。
皇族の外地での戦死は初めての事です。国葬が営まれ、台湾併合のシンボルとして祀り上げられて、台湾各地に能久親王を祭神とする神社が60も建立されました。当時の日本は大いにアジアへ打って出ようとしており、その最中に進軍中の宮様が亡くなるとあって国は大いにこの悲報を利用したのです。
おわりに
敵を追い詰めながら病に倒れる無念の最期──この宮の物語は、アジア進出を狙い富国強兵を急ぐ当時の日本にとって、英雄的な最期として国民の戦意を高める格好の材料であり、その生涯も伝記として残す必要がありました。執筆を任されたのは、台湾征討にも軍医として同行した森林太郎──のちの文豪・森鴎外です。その書物『能久王事績』(明治41年発行)は親王称賛基調ですが、敵との激しい攻防や病に侵された親王の様子なども淡々と書かれています。
時代に翻弄され、ある時は仏門の徒、ある時は朝敵の旗印、ある時はドイツでの恋に燃える青年、そして最後は国家の英雄……。北白川宮能久親王の生涯は、まさに明治という激動そのものを映し出す鏡のような一生でした。

コメント欄