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【べらぼう】江戸時代初期、幕府最高の司法機関になぜ遊女が出入りしていたのか?

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 大河ドラマ「べらぼう」第41回は「歌麿筆美人大首絵」。
 
 吉原遊廓が開設された当初は評定所に太夫(遊女の最高位を示す階級名)を3人ずつ「給仕」に出していました。徳川幕府の評定所というのは「今の都庁・警視庁・最高裁をかねたようなところ」という表現もあるように幕府最高の裁判所であります。町奉行、寺社奉行、勘定奉行にまたがる事件の裁決を担う司法機関でありました。

 そうした司法機関になぜ吉原の遊女が出入りしたのでしょうか。それについては次のような見解があります。

 評定所の奉行らは日々、政務や裁判に忙しく、一般人のように暇はない。遊女は元々は白拍子(平安時代末に起こった歌舞の一種を演ずる遊女。源義経の愛妾・静御前は有名)である。遊女の「艶色」を見るという訳ではないが、評定所で集まりがある日に遊女を招いて一曲奏でさせ、奉行人を慰めて欲しいという要請が「上様」(徳川将軍)よりあったとの説があります。また評定所に遊女を赴かせたのは、役所勤めをする女子の不足を補ったのではないかとされます。遊女を評定所に出す風習は元和年間(1615〜1624)から起こり、寛永年間(1624〜1643)には絶えたとされます。

 なぜ廃止になってしまったのか。これについても諸説あります。1つは前述のような役所に遊女を出入りさせることを憚ったというもの。更には役所勤めをする女子に事欠かなくなったという説もあります。それから寛永年中に遊女が遊郭外に出ることが禁止された事も関係しているのではないかとの説もあるのです。

 幕府高官の中には妻子を伴わず江戸に出てきた者もおりました。そうした人々は、遊女を屋敷に招いて酒宴などを催行していたのです。が、こうした遊女の町売り(出張)は禁止されてしまいます。ちなみに評定所へ赴く太夫はその前日には客をとらず、身を清めていたとのこと。評定所へ行くということは太夫にとっても「名誉」なことであったのかもしれません。


【参考文献】
  • 東京都台東区役所『新吉原史考』(東京都台東区、1960年)
  • 中野栄三『遊女の生活』(雄山閣出版、1965年)

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。 武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。兵庫県立大 ...

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