大河ドラマ「べらぼう」 生田斗真さん演じる一橋治済は本当に「危険人物」だったのか?

 大河ドラマ「べらぼう」第32回は「新之助の義」。「べらぼう」において徳川(一橋)治済を演じるのは俳優の生田斗真さんです。

 治済は「べらぼう」では悪役として描かれています。人当たりが良さように見えて、実は権謀術数に長けた野心家であり、政敵を間接的に死に追いやる悪役として描かれているのです。治済の子供の1人には豊千代がおり、この豊千代は徳川家治(10代将軍)の養子になっていたこともあり、家治死後は11代将軍に就任します。治済は11代将軍・徳川家斉の実父だったのです。

※参考:一橋治済と徳川将軍家の略系図(戦国ヒストリー編集部作成)
※参考:一橋治済と徳川将軍家の略系図(戦国ヒストリー編集部作成)

 治済は宝暦元年(1751)に徳川宗尹の4男として生を受けます。宗尹は8代将軍・徳川吉宗の4男ですので、治済は吉宗の孫ということになります。9代将軍には吉宗の嫡男・家重が就任し、宗尹は一橋家の初代当主となるのです。一橋家は御三卿(田安・一橋・清水)の1つであり、将軍家に後継者がない場合には養子を提供する役割を果たしました。治済はその一橋家の2代当主となるのです。「べらぼう」においては「サイコパス」「怪物」「危険人物」のように描かれている治済ですが、実際にはそれほど影響力はなかったと考えられます。

 治済は田沼意次が推進したいわゆる「田沼政治」に嫌悪感を抱いていました。利欲を専らにする風潮が蔓延していること、賄賂が横行していること、庶民の痛みとなることも顧みず運上金を押し付けたことなどをもって、嫌悪していたのです。よって治済は器量ある者を老中に就任させ、将軍(家斉)の補佐をさせるべしと考えていました。

 治済が見込んだのは田安家出身の松平定信(白河藩主)でした。治済は定信を要職に就けるべく、御三家(尾張・紀伊・水戸徳川家)と共に奔走、幕閣に定信を推薦するのですが、拒否されてしまいます。その時には、田沼派の人々が要職にあったということもありますが、御三家・御三卿は幕政に参画していた訳ではなく、排除されていました。よってそれほどの影響力はなかったのです。将軍の実父・治済であっても自らの要求を貫徹することはできなかったのでした。


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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。 武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。兵庫県立大 ...

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