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信長の鷹狩は何がスゴイのか?――「短気な男」が狩りに手間と時間を費やしたワケ

  • 2025/12/23
 「鳴かぬなら殺してしまえ」という句に象徴されるように、せっかちで合理主義なイメージの強い織田信長ですが、「一生の趣味」として、膨大な時間と手間を注ぎ込み続けたものがありました。それが「鷹狩」です。

 信長は若いころから盛んに鷹狩りを行い、鷹を扱うのも上手かったようです。単なる娯楽と思われがちな鷹狩ですが、そうではありません。本稿では信長の知られざる「鷹狩戦略」と、現代にも通じるその驚くべき合理性に迫ります。

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信長の鷹狩

 古来、貴顕(きけん)に愛された鷹狩。武将たちも「武芸の鍛錬」として励みましたが、織田信長もまた、見事にその魅力に嵌った一人でした。信長にとって鷹狩は単なる娯楽ではなく、身体の鍛錬、領地の地理把握、民情視察、さらには合戦の陣立てを模した訓練でもありました。

 青年期の信長は、鷹を腕に止まらせ、野を馬で駆け、手廻り衆として弓衆3人・槍衆3人・鳥見衆20人を引き連れるのが常でした。鳥見衆とは、二人一組で獲物となるべき小動物を見つけ出し、「彼方に良き鶴がおります」などと主人に知らせる役目です。 一人が報告に走り、もう一人が獲物を見失わぬよう現場で見張りをしました。

 いざ獲物を仕留める際も、信長は細心の注意を払いました。馬に乗った部下が鐙(あぶみ)に藁(わら)を括りつけて獲物の注意を引き、その影に隠れて信長が肉薄します。ここぞという瞬間に鷹を放ち、鋭い爪で得物を組み伏せると、すぐさま「向侍(むかいざむらい)」が駆け寄り、鷹をなだめながら獲物を回収しました。

 気の短いイメージのある信長ですが、狩りのためならこれほどの手間をかけるのですね。こうした一連の狩りの方法で、馬廻衆・小姓衆・弓衆・背子(せこ)衆らを動員し、合戦の際の機動力訓練として活用していたのです。

 天正3年(1575)に信長が越前の柴田勝家に贈った領国支配の心得を示した書状の中では、その合理的な意義を説いています。

「領国の地理査察には鷹狩が有効である。また鷹狩で家中諸人の働きぶりを見届けるのが大将の心がけの一つだ」

政治的示威行為でもあった鷹狩

 信長は、自身の政治的権威を見せつけるためにも鷹狩を利用しました。

 天正3年10月、越前一向一揆を平定した直後、信長は岐阜城から上洛する際に、鷹14羽と鷂(はいたか)3羽を軍に加えます。沿道には摂家をはじめとするお迎え衆が、勢田・逢坂山・山科・粟田口の辺りまで溢れていましたが、信長は彼らに見事な鷹を従えた堂々の行軍を見せつけ、武威を知らしめたのです。

 天正5年11月には、右大臣兼右近衛大将への任官御礼として参内(さんだい)した際も、信長と家臣たちは煌びやかな「鷹狩装束」に身を包み、金銀の狩杖(かりつえ)を携えて現れました。鷹狩装束での参内など異例のことでしたが、信長は鷹14羽を連れて正親町天皇に御鷹を叡覧(えいらん)させた後、そのまま東山で鷹狩を行い、仕留めた鶴を即座に献上。朝廷の伝統に敬意を払いつつ、自らの力を強く印象付けました。

信長の御鷹集め

 茶器の「名物狩り」で知られる信長ですが、鷹に対しても異様な情熱を注ぎました。良い鷹と聞けば全国から集めさせ、大名たちもこぞって献上した結果、永禄7年(1564)から天正10年(1582)までの18年間で手元に集まった鷹は140羽にも上ったといいます。

 信長は「鷹師」を各地へ派遣して鷹を集めさせていましたが、名鷹の産地である奥羽にも鷹師を派遣し、書状も送っています。

「鷹師2名を鷹所望のため遣わします。往復の便宜と鷹の餌の供給をお願いします。併せて逸物の鷹が手に入れば斡旋願いたい、よろしくお願いいたします」

 文面はこのようなものですが、同様の書状を上杉謙信に対しても送っています。さらに徳川家康や伊達輝宗の元にも名鷹を求めています。伊達輝宗はこの要望に応え、まことに素晴らしい名鷹を贈ったと伝えられています。

特別な意味を持った鷹のやり取り

 大名や武将の間では盛んに鷹の贈答がありました。古来、馬と鷹は引き出物として多用されましたが、特に鷹のやり取りには特別な意味があり、戦国時代には修好や盟約の証として贈られます。

 上杉謙信は、天文20年(1551)に近江の六角定頼に「弟鷹(だい)」一本を贈り、翌年には細川晴元に「大鷹」一連を贈っています。「弟鷹」とは雄よりも体が大きい大鷹の雌の事で「兄鷹(しょう)」は雄を指し、「一本」「一連」は鷹の数え方です。

 謙信は叙位任官に際しても足利義輝に大鷹一本、義晴には兄鷹を、義晴の側近・大舘晴光には大鷹一本を贈りました。越前の朝倉宗滴にも送りますし、公家の近衛前久には隼一本を贈り、出羽の秋田実季からは「珍しき御鷹」を受け取ったと喜んでいます。その他にも信長の上洛祝儀に贈ったり贈られたり、さらに徳川家康ともやり取りをしています。

家康も大好きだった鷹狩(両国にある鷹狩装束をまとった家康像)
家康も大好きだった鷹狩(両国にある鷹狩装束をまとった家康像)

 15代将軍・足利義昭も鷹狩に熱心で、朝廷へも「鷹の鳥」をしばしば献上していましたが、戦国動乱で足利将軍の威勢が衰えたからか、将軍家への鷹の献上が少なくなってしまいます。義昭は上杉・大友・島津・吉川らの戦国大名に鷹師を遣わし、鷹の献上を催促しています。

 一方で信長は天正10年(1582)の甲斐攻略直後、北条氏政から贈られた鷹を突き返しており、これは北条氏に対する宣戦布告に等しい行為でした。

鷹の鳥

 鷹のやり取りは特別な意味がありましたが、鷹が仕留めた獲物もまた、特別な意味を持ちました。

 中でも鶴や白鳥・雉・雁・鴨・朱鷺・鶉などの鳥は、特別に「鷹の鳥」と呼ばれて珍重されました。現在でも鵜飼で鵜が捕まえた鮎は「鵜鮎(うあゆ)」と呼ばれ、鵜のくちばしの跡が付いているものが希少で美味な鮎として扱われますが、同じような感覚でしょうか。

 「鷹の鳥」を贈る際には「鳥柴(としば)」という作法を用い、季節の木の枝に添えて届けられました。守護大名・土岐家の者がまとめた『家中竹馬記』には、”鷹の獲物はどんな食材よりも大事に扱わねばならず、調理や配膳・食べ方まで特別な作法が必要”とする旨が書かれています。

 近世では献上・下賜・贈答に用いられた「鷹の鳥」は、鶴・白鳥・雁などが多いのですが、16世紀まではまず雉(きじ)でした。平安・鎌倉時代を通じて特に持てはやされ、『徒然草』も「鳥には雉、さうなき物也」と持ち上げています。

 信長も室町幕府の宮中への「鷹の鳥」献上の儀に倣ったようで、次のように述べています。

「御鷹の鶴禁中へ献上、帝も御叡覧になり、喜ばれる。関白近衛前久殿へも御鷹の鶴を進上する」

 しかし一方で、天正9年の正月には、安土城下の町人たちに鶴や雁を大盤振る舞いしたり、茶の湯の会席料理にも鷹が狩った鶉(うずら)の焼き物を供したりと、信長らしい豪快で粋な使い方も見せています。

おわりに

 四つ足の肉食が禁忌とされていた時代、日本人は貴重な蛋白源として野山の鳥を手あたりしだいに獲って食べました。雀や鶉・鴨・雁はもちろん、白鳥や鶴も権力者が「良き獲物」として盛んに鷹に狩らせました。徳川将軍の供応の膳にも鶴の吸い物がのぼりましたが、白鳥や鶴はどのような味がしたのでしょうか。

 信長が愛した鷹狩の風景は、当時の政治、軍事、そして食文化が交差する象徴的な舞台だったのです。


【参考文献】
  • 岡本良一/編『織田信長事典 コンパクト版』(KADOKAWA 2007年)
  • 福田千鶴(編)・武井弘(編)『鷹狩の日本史』(勉誠社 2021年)
  • 大塚初重(編)ほか『考古学による日本歴史12』(雄山閣 1998年)
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  この記事を書いた人
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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