織田信長が築いた「城の革命」──天下人の夢と謎に包まれた名城・安土城
- 2025/12/10
渡邊大門
:歴史学者
織田信長は尾張統一を成し遂げ、美濃斎藤氏に勝利すると、居城を岐阜城(岐阜市)に移した。やがて家督を嫡男の信忠に譲ると、自らは安土城(滋賀県近江八幡市)を築城して移ったのである。
安土城は、信長権力の象徴となった城である。しかし、天正10年(1582)6月の本能寺の変直後に焼失したため、現在は城跡しか残っておらず、文献史料も乏しい。以下、残された乏しい史料から、安土城および城下町がどのような姿であったのかを見ていくことにする。
安土城は、信長権力の象徴となった城である。しかし、天正10年(1582)6月の本能寺の変直後に焼失したため、現在は城跡しか残っておらず、文献史料も乏しい。以下、残された乏しい史料から、安土城および城下町がどのような姿であったのかを見ていくことにする。
安土城を築いた理由
天正4年(1576)、近江の六角氏を放逐した信長は、安土城の築城に着手した。普請総奉行は丹羽長秀が務め、森三郎左衛門や熱田大工の岡部又右衛門が大工頭として任じられた。石垣普請に際しては11か国から労働者が動員され、坂本(滋賀県大津市)の穴太衆の石工らが担当した。安土城は、六角氏の居城だった観音寺城(滋賀県近江八幡市)をモデルとし、総石垣によって築かれた堅固な城であった。山城から平城へと移行する過渡的な形式であり、中世から近世への転換期を象徴する城郭であったと評価されている。
信長が岐阜から安土へ拠点を移した理由としては、主に以下の2点が指摘されている。
- 越後の上杉謙信への軍事的対策
- 北陸地方に勢力を持つ一向一揆の監視
さらに、安土は岐阜よりも京都に近く、琵琶湖の水運を活用できるという利点があった。
城は麓から山頂まで約100mの安土山に曲輪が配置され、琵琶湖に突き出すように築かれていた。家臣の屋敷は本丸・二の丸周辺に配置され、それぞれ独立した曲輪を形成していたのである。
安土城の天主
現在、安土城の天主は現存しておらず、当時の趣を伝えるものは壮大な石垣の遺構のみである。諸史料によれば、安土城の天主は五層七重であったとされる。当時、類例を見ない城だったのは、たしかなようである。
宣教師ルイス・フロイスの『日本史』などによれば、天主の姿は以下のように記されている。
- 天主は七重構造で、内外ともに精緻な建築であった。
- 内部は色彩豊かな肖像画が壁一面に描かれていた。
- 外部は階層ごとに色分けされ、黒漆塗りの窓を備えた白壁、赤色の層、青色の層、最上階は金色であった。
- 屋根は華美な瓦で覆われ、瓦の前列には丸い装飾が付き、怪人面の飾りも据えられていた。
- 障壁画は狩野永徳が担当し、書院・納戸・台所なども客間として整えられ、座敷は畳敷きであった。
ただし、天主は焼失して現存しないため、『日本史』のほか『安土日記』や「安土山御天主之次第」(『信長公記』)などの文献史料をもとに議論が続けられてきたが、史料間の記述内容に相違点が多く、定説はいまだ確立されていない。
安土城が焼失した理由
天正10年(1582)6月、信長が本能寺の変で自害すると、その直後の山崎の戦いで明智光秀が敗北した。しばらく経った6月15日、安土城の天主および周辺の建造物は焼失した。焼失した理由については、以下のとおり諸説が存在する。『秀吉事記』、『太閤記』には、明智秀満が敗走の際に放火したと記されている。しかし、この時点で秀満は堀秀政の軍勢に坂本城(滋賀県大津市)で包囲されており、安土城に放火することは不可能であったと指摘されている。
宣教師の記録には、織田信雄が明智方の残党のあぶり出しのために放火したと記されている。ほかにも土民による放火、落雷説などがあるが、決定的な根拠史料は存在せず、真相は不明である。
安土城下町の発展
天正5年(1577)6月、信長は安土城下町を新しい商業・交通の拠点とするため「13か条の掟書」を発布した。これは楽市楽座政策に基づくものであり、戦国期の都市法として先駆的な内容を持つと高く評価されている。この「13か条の掟書」は、文字どおり13条から構成されており、主な内容は次のとおりである。
- 第1条 安土山下町を楽市と定め、座の特権を廃止し、諸課役・諸公事を免除すること。
- 第2条 中山道を通行する商人は安土に宿泊すること。
- 第13条 近江国内の博労による馬売買を山下町に限定するほか、住民保護や治安維持に関する規定。
信長は美濃加納(岐阜市)や近江金森(滋賀県守山市)でも楽市楽座を実施していたが、これらは3か条程度と簡素であった。「13か条の掟書」は最も詳細かつ充実した内容を持つものである。
なお、楽市楽座は信長のオリジナルな政策ではなく、今川氏や六角氏も先行して実施していたことが指摘されている。信長は今川氏などの政策を継承しつつ、より徹底させた点に革新性があったと評価できる。
まとめ
信長の「13か条の掟書」は、天正14年(1586)6月に豊臣秀次が発布した掟書にも継承されており、内容はほぼ同一である。この頃、城下町は安土から近江八幡へと移されたが、信長の政策理念は引き継がれた。安土城は城郭として高い評価を受けているだけでなく、城下町整備の面でも画期的であった。まさに天下人・織田信長にふさわしい城であったといえる。
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この記事を書いた人
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...
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