どうした家康!? 脱糞話など、なぜ静岡県西部に「へっぽこ家康」の逸話が多いのか
- 2026/02/03
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例えば、今川家の人質時代に「石合戦の勝敗を的中させた」という話。これは幼少期から先見の明があったことを伝える英雄譚です。一方で、元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いでは「敗走中に恐怖のあまり馬上で脱糞した」という、なんとも無様な話も有名です。
実は、この脱糞事件のような「家康の黒歴史」とも言える逸話が、遠州地方(現在の静岡県西部)には驚くほど多く残されています。なぜ最強の天下人・家康は、この地でこれほどまでに「へっぽこ」に描かれているのでしょうか? その謎を考察します。
遠州に残る、人間臭すぎる「家康逸話」の数々
早速、地元に伝わる具体的なエピソードをいくつか紹介しましょう。どれも天下人・家康のイメージを覆すものばかりです。その1:馬鹿にされて褒美は半分(浜松市天竜区佐久間町)
家康は敵に追われて民家へ逃げ込んだ。差し出されたお茶を飲み、安堵した家康は長い間髭を剃っていないことを思い出した。そこの婆さんが家康の髭を剃ってあげると、喜んだ家康は「褒美に山を与えよう」と言った。しかし、ただの落ち武者だと思った婆さんはこの話を信じなかった。馬鹿にされたと思った家康は「与える山は半分にする」と言い残して立ち去った。やがて家康が天下をとると、本当に山を半分与えた。
その2:草に隠れて命拾い(浜松市中央区花川町)
三方ヶ原の戦いの時のこと。敗走する家康を見かけた草刈り中の庄屋八右衛門は刈り取った草で家康を隠した。その後、家に連れて行き蕎麦を食べさせた。元気になった家康は無事に浜松城へ帰ることができた。後に、八右衛門は家康から褒美に刀を戴いた。
※八右衛門は家康を百姓姿にさせて浜松城まで帰した、という話もあり。
その3:丸坊主にされる(周智郡森町)
武田軍との戦に敗れた家康は栄泉寺に逃げ込んだ。この時、和尚は家康の頭を剃って丸坊主にし、武田軍が来ても平然とお経を読ませた。寺には坊さんしかいないと思った武田軍は兵を引き、家康は無事に城まで帰ることができた。
※負傷した家康は傷が治るまでこの寺で匿ってもらった、という話もあり。
その4:小豆の塩煮で無事生還(浜松市天竜区横川)
家康は武田勝頼との戦に負け、光明山の洞窟に隠れた。勝頼はすぐ近くまで追ってきたが、空腹だったため百姓の家に寄り「一番早く煮える物を出せ」と命じた。ところが百姓は煮るのに時間がかかる小豆の塩煮を作りだした。それを知った家康は急いで洞窟を出て、無事帰ることができた。
ちなみに、家康が隠れた洞窟を「隠れ岩」、両者が戦った坂を「小豆坂」と呼ぶようになった。
その5:屁を出しながら逃げる(菊川市神尾)
家康が武田軍に追われながら逃げ、神尾の坂まで来た。空腹の家康は急坂を登りながら苦しさゆえか「ブーブー」と屁をしながら上ったという。以降、この坂は「ヘッピリ坂」と呼ばれるようになった。
その6:曽布川の名字(浜松市中央区東町)
敗走中の家康の前に、赤茶けたソブ(水アカ)がいっぱい浮いた川のような田んぼが現れた。家康が渡れずに困っていると、近くの百姓が家康を背負って渡ってくれた。家康はそのお礼に「曽布川」という名字を与えた。
家康伝承の調査結果
これら以外にも、数え切れないほどの逸話が遠州には眠っています。実は、令和2年11月から令和4年9月にかけて、浜松市博物館と有志の市民が協働で、この地域に残る家康伝承の調査・分析が行なわれました。その結果をご紹介いたします。まず、話の構成には主に2つの大きな特徴があります。
・場面設定→ “三方ヶ原の戦い”や“武田軍との戦い”に関する、家康が窮地に立たされた場面が多い
・話の構造→「家康が負けて逃げる」→「領民に助けられる」→「家康が後に褒美を与える」という黄金パターン。
話の内容も以下の4つが多く見られます。
さらに、内容を分類すると、以下4つのカテゴリーが多く見られます。
1、「〇〇に隠れて命拾い」話
寺・家・門などの屋根裏、森の中など、とにかく家康は至る所で必死に隠れています。2、「〇〇の格好で逃げた」話
漁師や酒屋、百姓など、正体がバレないよう様々な変装をして逃走する姿が描かれています。3、「地名の由来」につながる話
小豆餅(餅を食い逃げした場所)や銭取(餅代を取り立てられた場所)など、家康の失態がそのまま地名として刻まれています。4、「名字の由来」につながる話
お粥をご馳走したから「小粥」、手を洗う水を出したから「御手洗」など、家康は助けてくれた人々にお礼として名字を与えています。────
もちろん、上記以外にも話は残っていますが、総じて、「武田に負けた家康が逃げ惑う最中の出来事」が、遠州の伝承の核となっていることが判明したのです。
遠州の人々にとっての家康とは?
皆さんご存知の通り、家康は29~45歳の約17年間を浜松で暮らしています。この時期は家康が戦国大名として大きく成長した時期と言われています。しかし、その実態は過酷なものでした。盟友である織田信長を支えつつ、自らは最強の敵・武田軍と戦うする日々。さらには正室・築山殿の殺害や、嫡男・信康の自害という痛ましい事件も重なりました。また、家康は旧今川領であった遠州を治めるため、検地や厳しい年貢の取り立てといった「圧政」を敷いていたことも史料によって判明しています。
つまり、浜松時代は家康にとっても領民にとっても、非常に苦しく、緊張感に満ちた時代だったと推測されます。
ちなみに「昔、権現さま逃げるが勝ち」という言葉が遠州に残っています。これは不利なことや都合が悪いことがあると「逃げるが勝ち」と言って逃げ出す時に使われる言葉です。これも「権現さま(家康)が逃げ出した」という話が元になっています。
やはり、遠州では「家康は負けて逃げる」イメージが相当強いことが分かります。
なぜ「負け犬のイメージ」がここまで定着したのか?
なぜこれほどまでに「負けて逃げる家康」の話ばかりが語り継がれたのでしょうか。その理由について考察してみます。先述の通り、当時の家康は遠州で厳しい統治を行なっていました。しかし、力を持たない領民らは家康に抵抗せず、ひたすらこの圧政に耐えます。
女子供まで処刑された獄門畷のこと(堀川城の戦い)や、謀反を企てて鋸挽きで処刑された大賀弥四郎のことを知っていたのでしょうか?「家康は恐ろしく、冷酷な存在」……それが当時のリアルな実感だったかもしれません。
そんな中、領民たちは「あの恐ろしい家康が、三方ヶ原の戦いやその他の戦いで武田軍に負けているようだ…。」という話を聞いたのでしょう。普段は口に出せない家康への不満を「ここでも負けた」「あっちでも負けた」と話に尾ヒレをつけて面白おかしく語り合うことで発散していたのでしょう。これが、家康の「黒歴史」ばかりが強調された理由ではないでしょうか。
しかし、後に家康が天下人としての地位を盤石にすると、領民たちは「俺たちがあの家康様を助け、褒美を貰った」という内容を強調することで、自分達の存在価値を高めようとしたと思われます。特に、遠州の由緒ある寺社や家に残る『由緒書』を見ると、その辺りが垣間見えます。
つまり、時と状況に応じて遠州の人々は“上手に”家康というキャラをネタとして利用にしていた、と考えられますね。
最後に
遠州の家康逸話は天下泰平の世を築いた「神君家康」の印象とは程遠く、「いつも戦に敗れて逃げ回り、庶民に助けられる」なんだか頼りない印象を与えます。これらはあくまで物語であり、歴史的事実とは別物です。ですから、正確な史実を導き出すことはできません。しかし、逸話が今日まで語られてきたという歴史的事実は、史実の根拠となる史料からはイメージできない歴史を描き出すことができますね。



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