今川氏真にとって、桶狭間の敗戦と松平元康(=徳川家康)の離反による今川氏への影響ははかりしれないほど大きかったようだ。
戦後、松平元康が独立して東三河へ侵攻を行なうと、今川家臣であった三河の国衆らも同調して相次いで元康方に味方する事態(いわゆる三州錯乱)が引き起こされた。さらに東三河の今川領が徐々に元康に奪われていくと、永禄5年(1562年)の末頃からはついに隣の遠江国でも動揺(いわゆる遠州忩劇)が広がりはじめることとなったのだ。
こうした混乱の中、井伊家にも激震が走る。井伊直親が今川重臣の朝比奈泰朝に討たれたのである。事の発端はまたしても家老の小野氏による讒言であった。
各史料(『寛政重修諸家譜』『井伊家伝記』『松平記』『家忠日記増補』『武徳大成記』『礎石伝』etc..)によって若干の違いはあるが、おおむね以下のような流れであった。
『家忠日記増補』によれば、新野左馬助は氏真に「直親は謀反を起こすような人物ではない」と熱心に説得し、小野政次の発言に対しては「佞臣(ねいしん)の讒言」とまで言い切ったという。また、謀反の疑いをかけられた直親は「桶狭間で父・直盛が信長に討たれているのに、なぜ信長に味方する理由があるのか」と申し述べたようであり、これに氏真の怒りも収まったという。
このほか、『井伊家伝記』によれば、小野政次は井伊谷の押領を企んでおり、以前に父の小野政直が直親の父である井伊直満を死に追いやった一件が関係して、直親とは不和であったという。ちなみに同史料では小野政直と小野政次とは親子としているが、『小野氏系図』(龍潭寺所蔵)で2人が親子であることを確認できないという。
直親の遺骸は南渓和尚が引き取り、龍潭寺で葬儀が行なわれた。結局のところ、直親が本当に元康・信長と内通していたのか、朝比奈泰朝が事情をどこまで知っていたのかなどはハッキリしていないようである。
この一連の事件は同年12月とされているが、一部史料には3月と記されているものもある。直親27歳、遺児・虎松(=のちの井伊直政)はわずか2歳のときであった。
直親死後の井伊氏はどうなったのであろうか?
『家忠日記増補』によれば、直親の所領は没収されたといい、このときに氏真は虎松も殺害しようとしたが、新野左馬助が赦免を嘆願したために許され、そして左馬助が養育をすることになったという。
また、無慈悲なことに『礎石伝』では、朝比奈泰朝が井伊城に攻め込んで井伊家臣らが残らず討たれたとも伝わる。
虎松が実際に育てられたのは、龍潭寺のなかの松岳院であったようである。
こうしてみると井伊家はほぼ滅亡したようにみえる。唯一の希望が後継者の虎松と、それを支える新野左馬助親矩と家老の中野信濃守直由の存在であった。
しかし、さらに井伊氏の苦難は続いた。遠州忩劇の渦に飲み込まれて井伊家を支えるキーマンが次々と消えていく。
まずは直虎の曾祖父・井伊直平。
永禄6年(1563年)に今川氏から離反した天野景泰・元景親子の討伐を命じられたときに亡くなったようである。『寛政重修諸家譜』の直平の項によると、直平は同年9月に75歳で亡くなったとある。死因は諸説あって混沌としており、はっきりしていない。
飯尾連龍は引馬城の城主を務めた今川家臣である。また、『井伊家伝記』には直平の家老を務めたともあるが、信憑性は低いようである。この連龍も天野親子と同様に反旗を翻すことになる。
続いて新野左馬助と中野直由。
同年末から今川家は引馬城攻めを行なって先に述べた引馬城主・飯尾連龍を攻めるが、このときに新野左馬助と中野直由の2人は出陣の命を受ける。
『井伊家伝記』によると、このとき2人は無勢を理由に援軍を申し出て、氏真から千、または二千の兵を与えられ、これに井伊谷の兵を加えて出陣したという。
この戦いは今川一門の堀越氏延も裏切った影響もあり、決着は翌永禄7年(1564年)までずれ込むことになった。その過程における引馬城の東・天間橋の戦いで同年9月に2人はあえなく討死となったのである。 ちなみに引馬城は陥落せず、飯尾連龍と氏真は和睦となるが、連龍はのちに結局氏真に謀殺される運命をたどる(他説もあり)。
この年の今川氏は、前年に勃発した三河一向一揆を乗り越えた家康に吉田城を奪われたことで三河国の支配権を失い、着実に弱体化の一途をたどっていた。そして一方の井伊氏も、井伊直平・新野左馬助・中野直由らが没し、井伊家中には直親を死に陥れた小野政次だけが残るという危機的状況にさらされるのであった。
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