• [PR]

わずか3年!幕末の敗者・徳川家が静岡に作った幻の理想郷「静岡藩」の意地と悲哀

  • 2025/12/24
駿府城のイメージイラスト
駿府城のイメージイラスト
 幕府全権として西郷隆盛との談判に臨んだ勝海舟。彼は江戸城無血開城を実現させ、徳川家の存続と徳川慶喜の助命を勝ち取りました。こうして誕生したのが、駿河(静岡)を領地とする「静岡藩」です。しかし、そこには旧幕臣たちの過酷なリストラと、短くも輝かしい教育・産業のドラマが待っていました。

  • [PR]
  • [PR]

徳川家の凄絶なリストラ

 勝海舟や大久保一翁・山岡鉄舟らの尽力により、徳川家は宗家を継いだ徳川家達(いえさと)を藩主として、駿河・遠江などに70万石を与えられました。数字の上では大藩ですが、かつての700~800万石規模からすれば10分の1以下の大減封です。

 慶応4年(1868)当時、旧幕臣である徳川家家臣は旗本6千人・御家人2万6千人と合計3万人にのぼります。戊辰戦争が続く中で、江戸を脱走して戦い続けた武士も多くいました。その時点で彼らは徳川の籍を離れていましたが、その人数を差し引いたとしても、まだ多数が徳川に臣従していました。70万石の財政で養えるのはせいぜい5千人で、それ以上の家臣には徳川の籍を離れてもらわねばなりません。

 そこで徳川家は家臣に対し、3つの選択肢を提示します。

1.明治政府に帰順して朝臣となり、新政府に出仕する
2.徳川家に御暇を願い出て、農業や商売など他の生き方を求める
3.無禄覚悟で徳川家に付き従い、新領地に移住する

 上記1を選択した場合、幕府から拝領していた屋敷は取り上げられず、幕臣時代の俸禄も維持されます。もっとも後には大幅にカットされますが、給与も家も安堵されるなど、賊軍とされた割には好条件です。勝たちは旧家臣がこの道を選んでくれることを望み、最終的には旗本・御家人合わせて5千人弱が新政府に仕えました。千石以上の上級旗本に帰順者が多かったそうです。

 2の場合も徳川家とは縁が切れて主従関係も終わります。4千5百人ほどがこの道を選びましたが、慣れない商いに失敗する「士族の商法」に終わる例が大半でした。

 問題は3です。勝たちの予想を遥かに超える、1万人以上の家臣が「無給でもいいから殿様についていく」と残留を希望したのです。彼らには確固たる見通しがあったわけではありません。急変する世の中で新政府を信じきれず、かといって徳川家を離れて農民や商人になる勇気もなく、消去法として「現状維持(徳川への臣従)」を選んだのが実情でした。

 予定の3倍以上の家臣を連れて行かねばならない勝たちも困惑しますが、新政府も5千人もの就職希望者が出たのは計算違いでした。

徳川宗家第16代当主となり、明治初期に静岡藩主(知藩事)を務めた徳川家達(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
徳川宗家第16代当主となり、明治初期に静岡藩主(知藩事)を務めた徳川家達(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

新政府にも事情が

 計算が狂った勝たちは再三説得を試みます。

「今は石を食っても砂を食んでも旧主に仕えると言っているが、それで済まないのは目に見えている。結局徳川家に迷惑になるから銘々自活の道を見つけてくれ」

 しかし、静岡への移住希望者は減りませんでした。

 一方で、新政府も焦っていました。慶応4年7月に江戸が「東京」と改称され、明治への改元、天皇の東京行幸が控える中、政府に恭順しない元武士が数万人も東京に居残っている状況を危険視したのです。

「行幸に合わせて騒動を起こされてはかなわん」

 そう考えた政府は、10月までに屋敷を引き渡し、静岡へ退去するよう厳命しました。当時、江戸城を追われた徳川家は神田の仮住まいに身を寄せていましたが、そこから追い立てられるように出発を余儀なくされたのです。

 明治元年8月、徳川家達らは陸路で静岡へ。追うようにして家臣たちも、藩が手配した外国商船や徒歩で静岡へ向かいました。それは、一族郎党を含めれば数万人に及ぶ、歴史的な大移動となりました。

人材レベルは高かった静岡藩

 東京で後始末に追われていた勝も10月には静岡へ入ります。静岡藩の家老には旧若年寄の平岡丹波が就きましたが、実権を握ったのは勘定奉行や外国奉行など幕府の要職を務めた大久保一翁です。

 勝と大久保は、生活の糧を持たない藩士を救うため、静岡・沼津・浜松・掛川などの各城下で「勤番組士」という警備ポストを作ります。しかし、あまりの人数に俸禄は極限まで削られました。

 幕臣時代に3千石以上あった大身(たいしん)でも、わずか「五人扶持(5人分の食い扶持)」になる等、かつての栄華は見る影もありません。のちに扶持米は2倍から3倍になりますが、「無禄とはいえ、公方様に付いて行けば何とかなるだろう」と思っていた旗本たちは当てが外れたのです。

 しかし、彼らには唯一無二の武器がありました。それは、これまで幕府の中枢で国政を動かしてきた「高度な実務能力」と「学識」です。

 薩長を中心とした新政府の役人たちは、理想は高くとも行政経験が圧倒的に不足していました。各地で失政や混乱が相次ぐ中、新政府は皮肉にも「かつての敵」である人材の宝庫・静岡藩に頼らざるを得なくなっていきます。

突出した2つの教育機関

 静岡藩は、2つのレベルの高い教育機関を創設しました。静岡学問所と沼津兵学校です。

 明治元年(1868)10月、まず静岡学問所が開校します。責任者には幕府命令でオランダに留学し、ライデン大学で法学・経済学・統計学を学び、津山藩士から幕臣に抜擢された津田真一郎が就きます。英・仏・蘭・独の4カ国語コースが設けられ、教授陣には幕府時代の洋行帰りのエリートが名を連ねました。

 そしてもう一つ、明治2年(1869)正月には沼津兵学校が開校となります。頭取は津田たちとともに留学した津和野藩士だった西周(にしあまね)が就任、彼は国際情勢に詳しい人物と目されていました。この学校は旧幕府陸軍の士官たちや洋行帰りの藩士が教授となり、国の陸軍士官学校のようなものでした。

 この2校のレベルの高さは全国に注目され、諸藩から見学者が訪れて入学希望者が殺到。さらに静岡藩士の優秀さも知れ渡り、「御貸人(おかして)」として全国各地の学校に教授として招聘されました。その数250余人に上り、かつての敵である薩摩藩にも招かれたり、新政府の重鎮・大村益次郎も視察に訪れたりと、教育界における静岡藩のプレゼンスは圧倒的でした。

渋沢栄一の登場と商法会所

 この静岡藩の財政危機に立ち上がったのが、後に「日本資本主義の父」となる渋沢栄一です。最後の将軍・徳川慶喜の家臣だった渋沢は、明治2年(1869)に「商法会所」を設立し、自ら頭取となりました。

静岡藩に出仕した渋沢栄一(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
静岡藩に出仕した渋沢栄一(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

 これは、駿河・遠江の豪農商からの出資金と政府からの借入金を元手に、藩が商業活動を行う現代の株式会社のような組織です。渋沢は静岡藩の主産業である茶や漆器といった地元の特産品を県外へ売り、米や肥料を大量に購入して、米は藩内で販売、肥料は農民に貸し出すなど卓越した手腕を発揮。わずかな期間で8万6千両という莫大な利益を叩き出し、藩財政を劇的に改善させました。

 しかし、この成功も長くは続きませんでした。明治4年(1871)7月に政府が断行した「廃藩置県」により、静岡藩そのものが消滅し、藩の事業として継続不可能になったのです。会所を支えていた優秀な旧幕臣たちも各地へ散って行きました。

おわりに

 静岡藩が消えたことで、誇り高き「静岡学問所」や「沼津兵学校」もその使命を終えました。沼津兵学校は政府の軍事教育中央集権化の波に飲まれて明治5年(1872)に閉校、静岡学問所も文部省による学制頒布(私塾廃止令)によって、同年に廃止されました。

 しかしこれは、単に悲劇的な結末だった、とも言い切れません。教授や学生、そして渋沢栄一をはじめとする実務家たちは、廃藩後にこぞって中央政府や民間企業へと引き抜かれていきましたが、静岡という「実験場」で培われた近代的な知見や組織運営のノウハウは、そのまま明治日本の骨格を形作るエネルギーへと転換されていったのです。

 徳川家存続のために急造された静岡藩。それは、わずか3年で消えた幻の藩でしたが、そこで育まれた人材が、その後の日本を近代国家へと押し上げる原動力となったことは間違いありません。


【参考文献】
  • 河合敦『幕末・明治偉人たちの「定年後」』(WAVE出版 2018年)
  • 安藤優一郎『勝海舟の明治』(洋泉社 2016年)
  • 樋口雄彦『勝海舟と江戸東京』(吉川弘文館 2013年)
  • [PR]
  • [PR]
  • ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
  • ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。
  • [PR]
  • [PR]