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信長の「三段撃ち」や武田の騎馬軍団は虚説か? 長篠合戦の真相を徹底検証

  • 2025/12/26
:歴史学者
鉄砲隊イラスト(AI生成イラスト)
鉄砲隊イラスト(AI生成イラスト)

はじめに

 天正三年(1575)の長篠合戦で、織田信長は戦国最強とされた武田氏の騎馬軍団を、三〇〇〇丁もの鉄砲で撃破したと長く語られてきた。とりわけ鉄砲の「三段撃ち」は軍事革命と称されてきたが、近年はその評価に見直しが進んでいる。それは、武田の騎馬軍団も同じである。では、この通説はどこに問題があったのか考えてみたい。

 鉄砲の「三段撃ち」や武田の騎馬軍団の根拠となったのは、17世紀初頭に成立した小瀬甫庵の『信長記』である。その後、参謀本部編『日本戦史 桶狭間役』(元真社、1911年)がこの説を採ったので、その影響力は大きく、長らく通説とされてきたのである。

 しかし、甫庵の『信長記』の内容は、同じ二次史料の太田牛一の『信長公記』を参考とし、おもしろく創作したものである。それは、歴史小説と同じといえよう。甫庵の『信長記』は歴史史料として適さないので、今となっては鉄砲の「三段撃ち」や武田の騎馬軍団も否定されている。

疑問視される軍事革命

 長篠合戦では、織田・徳川連合軍が「鉄砲三〇〇〇挺による三段撃ち」を行ったので、戦国最強と恐れられた「武田の騎馬軍団」を壊滅させたと語り継がれてきた。日本の軍事史でも、象徴的な合戦だったと目されてきたのである。

 先述のとおり、こうした記述の多くは二次史料に基づいており、近年の研究では疑問が呈されている。

 まず、鉄砲隊が三列に並んで交代射撃を行うのは、実際に極めて困難だったこと、また戦いの実像は武田軍の騎馬による突撃ではなく、下馬して戦った可能性が高いことが指摘された。近年の見直しでは『信長公記』の記述が重視され、後世の軍記類などは信頼度が低いとして退けられたのである。

 ところが、その後の研究では、東国の戦国大名には敵を混乱させる騎馬衆が実在したこと、「三段撃ち」とは三ヵ所に配置した鉄砲衆が順番に射撃した方式を指す可能性があること、そして勝敗を決めたのは織田軍の鉄砲数が武田軍を大きく上回っていた点だとする反論も示された。

 このように、近年の研究は従来説を鵜呑みにせず、長篠合戦の実像を丁寧に再検討している。以下では、さらに具体的に確認していきたい。

三〇〇〇丁も鉄砲があったのか

 まず、信長軍が三〇〇〇丁もの鉄砲で三段撃ち(1000丁の鉄砲を代わる代わる撃ったこと)を行ったという点を考えてみたい。

 信長は若い頃から橋本一巴に鉄砲の扱いを学んでおり、鉄砲の重要性を深く理解していた。また、弾の原材料である鉛や、火薬原料の硝石を確保するため奔走したことも事実である。永禄十一年(1567)の上洛時に堺を掌握しようとしたのは、鉄砲生産を支えるためであったといわれている。

 ただし、『信長公記』の写本によっては、鉄砲の数を一〇〇〇丁とするものもある点には注意したい。『信長公記』には複数の原本が伝わっており、ほかにも多くの写本が残っている。いずれが正しいのかは、今後の課題でもある。

 さらに現実的に考えると、信長軍が三〇〇〇丁を一〇〇〇丁ずつ三隊に分け、交代射撃を行う訓練を積んでいたのかは疑問である。兵農分離が完全に進んでいない当時、兵卒の技量は一定ではなく、千人が同時に射撃のタイミングを合わせるのは難しかったであろう。火縄銃は着火から発射までにタイムラグがあり、統一的な射撃は困難だったと考えられる。

 『信長公記』によれば、鉄砲隊は各部将から兵を集めたもので、千人に対し五人の指揮者がついたという。したがって、敵が射程に入った段階で、状況を見ながら代わる代わる撃ったと考えるほうが現実的である。

 そもそもの問題として、1000丁の鉄砲の射撃手が1mの間隔を置いて並ぶと、端から端まで1kmになる。指揮者が「撃て!」と号令を掛けたとしても、1km離れた射撃手に号令が伝わるのかという素朴な疑問が残る。

鉄砲隊の千人横並びはありえない?(AI生成イラスト)
鉄砲隊の千人横並びはありえない?(AI生成イラスト)

存在が疑わしい武田氏騎馬隊

 次に、武田氏の騎馬隊である。従来は、武田軍が騎馬による激しい突撃を繰り返したが、三〇〇〇丁の鉄砲の前に敗れたと説明されてきた。しかし、これがどこまで史実かは再検討されている。

 当時は兵農未分離であり、武田軍の多くの兵士は農業に従事していた。上層家臣を除けば、日常的に騎馬戦の訓練を受ける体制ではなく、大規模な「騎馬軍団」が存在したのかは疑問である。

 また、当時の戦いは馬から降りて戦うのが一般的だった。馬に乗ったまま槍や刀を振るう例はあったが、それは特殊な例であると考えられる。馬は耕作にも使われる高価な資産であり、死傷を避けるため下馬戦が多かったのだ。

 加えて、日本の在来馬は体高一二〇センチ前後の小型馬であり、馬防柵に体当たりして突破するような行動は現実的ではなかった。そもそも馬は臆病な動物であり、本当に馬防柵に体当たりしたのか疑問が残る。映画の一シーンのように、大軍で騎馬が突撃し、敵をなぎ倒すというイメージは、後世の脚色の可能性が高いのである。

まとめ

 結局、長篠の戦いの実像を示す一次史料は乏しく、二次史料に頼るほかない。史料上の制約があまりに大きいのだが、それはどの合戦を研究するにしても同じである。そのため、近年は史料批判を徹底し、通説を一つずつ検証する作業が進んでいる。

 現在では、信長の「三段撃ち」や武田の「騎馬軍団」といった従来のイメージは大幅にトーンダウンしているが、長篠合戦をめぐる議論は今も続いており、今後の研究成果が注目される。

 なお、当時の武将は軍功を挙げるため「抜け駆け」を行うことが多く、武田軍でも無謀な突撃が敗因の一つになった可能性も考慮すべきであろう。ともあれ、この問題は今も研究が進んでいる。

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  この記事を書いた人
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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