時期 | 天正3年(1575年)5月 |
勢力 | 織田・徳川連合 vs 武田勝頼 |
場所 | 三河国・長篠付近(現在の愛知県新城市) |
武田信玄の死後、織田信長と徳川家康は武田に対して反攻を強めていたが、一方で武田勝頼も積極的に織田・徳川領への侵攻を繰り返していた。こうした中で勝頼が天正2年(1574年)2月の第一次高天神城の戦いにおいて、父・信玄も陥落させることのできなかった遠江・高天神城を徳川方から奪い取ると、そのままの勢いで三河・長篠城の奪還に力を注ぎ始める。長篠城はそれまで武田方の所領であったが、信玄死後に家康に奪われていたのである。
そして天正3年(1575年)4月、ついに勝頼は1万5千もの大軍を率いて長篠城を包囲。 長篠城主は武田氏より離反して徳川家臣となった・奥平貞昌(のちの奥平信昌)であり、彼の善戦もあって武田軍による長篠城の攻略は難航。こうした状況を知った家康は信長に援軍を要請。同5月12日に信長は3万人の大軍で岐阜を出陣し、家康の居城・岡崎城へと向かった。14、15日は岡崎城で武田軍とどのように戦うのか打ち合わせたとみられている。
そして16日に牛久保、17日に野田を経て、3万8千となった織田・徳川連合軍は18日に設楽原に到着。信長軍は極楽寺山に着陣。南北に細長く配置して鶴翼の陣形をとり、一方の家康軍は高松山に陣を敷いた。この日の夜には陣の前に土塁を築き、馬防柵を設置している。
こうした織田・徳川軍の陣形と設備は積極的に攻撃を仕掛けようとするものではなく、敵の攻撃を防ぐための臨時の砦のようなものであり、武田軍の様子をうかがったまま2日間は動かなかった。一方で武田勝頼も19日に軍議を開いており、翌20日にはわずかな兵を残して長篠城包囲を解き、軍勢の大半を移動させて、織田・徳川連合に向かい合う陣形をとった。
これに対し、信長は20日の夜に武田軍の背後にある長篠城の付城・鳶ヶ巣山砦の攻撃を計画。家康の重鎮・酒井忠次を呼び、金森長近や信長自身の馬廻衆500の鉄砲隊を含め、約4千の別働隊を預けて奇襲を命じて出発させたという。
なお、『常山紀談』このときの軍議の様子を記した逸話がある。──
軍議で鳶ヶ巣山砦の攻撃を発案したのは酒井忠次だったが、最初信長はそれを一蹴した。しかし、軍議が終了すると信長は密かに忠次を呼びつけて作戦決行を命じた。これは武田軍の諜報を案じた信長が軍議ではあえて採用しなかったということである。
そして21日の夜明けまでに、酒井忠次・金森長近ら別働隊は密かに正面の武田軍を迂回すると、長篠城包囲の要であった鳶ヶ巣山砦を後方より強襲。ついに開戦となった。
両陣営の主な参戦武将は以下のとおり。
武田軍が長篠城を包囲・監視のために築いた鳶ヶ巣山砦は、織田・徳川連合の別働隊の奇襲を受けて陥落。このとき武田方は主将の河窪信実(勝頼の叔父)、三枝守友、五味貞成、和田業繁、名和宗安、飯尾助友などが討死している。武田の残兵は豊川を渡って退却したが、追撃を受けて高坂昌澄も討ち死となった。一方で徳川方は松平伊忠が追撃の際に深入りして討ち死している。
この戦いは織田・徳川連合にとって以下のように大きな意味があった。
鳶ヶ巣山攻防戦と並行して同日の早朝、武田軍の山県昌景隊が徳川方の大久保隊をめがけて攻撃をしてことが開戦合図となり、設楽原での両軍本隊による決戦が始まった。
丘の上から武田軍は次々と突撃していったが、織田・徳川連合の兵はほとんど動かなかったという。武田軍が接近したのを見計らって横一列になった織田・徳川連合の鉄砲隊が攻撃。この決戦は卯の刻(午前6時)に始まって未の刻(午後2時)に終わったといい、武田方は山県昌景、馬場信春、内藤昌秀、真田信綱、真田昌輝、原昌胤、土屋昌続など、多くの重臣や指揮官が討死するという大敗を喫した。勝頼はわずか6騎で奥三河に逃げ込んだという。
※『信長公記』
武田の大軍に長篠城を包囲された際、長篠城の守備隊はわずか500ほどで籠城し、武田軍の猛攻を防いでかろうじて持ちこたえていたが、数日以内に落城寸前となっていた。
5月14日の夜、長篠城主・奥平貞昌は援軍の要請のため、家臣の鳥居強右衛門らを家康のいる岡崎城に向かわせた。強右衛門は上手く城を抜け出し、5月15日の午後に岡崎城にたどり着くと、信長や家康に長篠城の窮状を伝え、翌日には織田・徳川連合の援軍が出陣することを聞いた。
強右衛門はこの報を伝えるために長篠城へ引き返すが、5月16日の早朝、城の目前で武田の兵に捕らえられてしまう。武田方は強右衛門を長篠城の前で磔にし、「城兵に向かって”援軍は来ない”と叫べば助命する」ことを持ちかけた。しかし、強右衛門は5月17日の朝、長篠城の兵に向かって「援軍はくる!」と大声で叫んだという。
こうして強右衛門はその場で武田軍に処刑された。しかし、長篠城兵の士気はあがり、援軍到着まで持ちこたえたという。
※『名将言行録』より
長篠の戦いのとき、信長は言った。
---三河国長篠の地---
武田の家中の者どもはよく馬を乗りこなして敵陣を突破するということを聞いておる。だからまずは備え(=隊)の前に柵をつくれ!
こうして信長は勝頼との一戦に向けて馬防柵を構築し、迎撃する策をとった。そして家康に言った。
徳川殿。勝頼は長年の敵であるからと、こたびこそはと思って深入りし、討死されることもあろう。
万が一にも徳川殿に討死などされては、この戦いに勝っても仕方のないこと。
むむう・・
ともかく徳川殿は今日は仏にでもなられ、いろいろとお構いにならぬよう、一切のことは我らにまかせておかれますように。
こたびの戦では武田の者どもを練雲雀のようにしてご覧にいれましょうぞ。
ハハハ。それは頼もしきことですな。かたじけない。。
練雲雀(ねりひばり)とは6月ごろ毛の抜け変わった衰えた雲雀のことである。やがて武田軍との一戦が始まった。
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いざ、出陣じゃーーー!
武田家臣ら:おおおーーーーーっ!
こうして戦がはじまり、武田の軍勢が川を渡ってきた。
信長軍は前々から準備してあったので、足軽どもを前に出させて鉄砲で応戦させ、武田軍が強く押し寄せてくれば柵の内側に退かせた。
そして敵が柵を乗り崩そうと群れをなして一度に乗りかかると、柵の柱に当たって突破できずにいるところを鉄砲で撃ちつけ、5騎・10騎ずつと撃ち落としていった。
こうした織田軍の戦法を前に武田方は次第にくたびれ、信長が先に言ったとおり、練雲雀のようになったのを見計らい、信長は下知した。
ちょうどよい時分だ。かかれ!
こうして旗本衆が柵を越えて一斉にかかり、勝頼は大敗となったのである。
※『名将言行録』より
長篠の戦いである敵将を生け捕りにした。その将の赤地緞子の下帯という異様な姿が信長の目に止まった。
お主は何者だ?名はなんと申す?
・・・・・。
腹を切らせるから名のるのだ!
・・・・。多田久蔵と申す。
久蔵はかつて武田信玄に仕えた足軽大将・多田三八郎の子であった。その多田三八郎は29もの武功を挙げ、全身に27もの傷をもつ猛将であったのである。
む!汝は美濃の者だろう。わが軍に入れ!
一度縄にかけられましたうえは、どうしてご奉公できましょうか。
昔、源 義平は縄にかけられたが、今は誉れの名を残しておる。気にせずともよい。
信長はそう言って縄を解かせたのであった。
その後、物かげでさわがしい音がした。
何事だ!!
先程の者の縄を解きましたところ、長柄を取って3人も突き殺したので、即刻討ち取りました。
なに!?
・・・一度縄をかけた辱めをそそごうとして、このようなことをしたのだろう。たとえ徒若党などを突き殺しても、生かしておいてやったものを。。
信長はその者の死を惜しんだのであった。