織田信長の鉄甲船は本当に“鉄の船”だったのか?――史料から迫る実像
- 2026/01/16
渡邊大門
:歴史学者
はじめに
織田信長といえば、合戦の方法を変えた人物としても知られている。長篠の戦いで鉄砲を用いたことは、その一つであり、かつては「軍事革命」であると評価された。しかし、今となっては「三〇〇〇の鉄砲を一〇〇〇ずつ、代わる代わる撃った」という説が否定されつつある。再検討が必要だろう。信長が「鉄甲船」を建造させ、木津川口の戦いで毛利水軍を打ち破ったという話はよく知られている。しかし、その鉄甲船が実際にどのような船だったのかについては、不明な点が多い。史料は残されているものの、具体的な構造や姿ははっきりせず、今なお謎の多い存在である。そもそも鉄甲船とは、どのような軍船だったのか考えてみよう。
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木津川口の戦いと鉄甲船
天下統一を目指す信長にとって、大坂本願寺と、それを支援する安芸の毛利氏は最大の敵であった。両者の対立が激しくぶつかったのが、木津川口の戦いである。この戦いは二度行われたが、とくに注目されるのが、天正六年(一五七八)に起こった第二次木津川口の戦いである。信長は、海戦に定評のある毛利水軍に対抗するため、伊勢・志摩の大名である九鬼嘉隆に命じ、鉄甲船を六隻建造させた。これらは、大型の安宅船だったと考えられている。戦いは最終的に織田方の勝利に終わり、信長は大坂湾の制海権を手に入れた。ただし、この鉄甲船については諸説があり、その実態はよく分かっていない。
ここで、まず安宅船について確認しておこう。安宅船とは、戦国時代に水軍が使用した大型の木造軍船の総称である。十五世紀から十六世紀にかけて、日本では本格的な構造を持つ大型船が造られるようになり、伊勢船や二形船などが登場した。軍艦というよりも、大量の物資を運搬するのに適した船だった。
安宅船は、こうした大型商船をもとに、屋形部分を分厚い板で囲い、正面に大砲、側面に弓や鉄砲を備えていた。さらに、上甲板には二層または三層の櫓を設けており、現在で言えば「軍艦」に近い存在であった。信長は鉄甲船を用いることで、戦局の打開を図ろうとしたのである。
史料から見た鉄甲船
鉄甲船について記した史料の一つに、『多聞院日記』がある。そこには、鉄甲船の大きさが、長さ十二~十三間(約二一・八~二三・六メートル)、幅七間(約一二・七メートル)と記されている。とくに重要なのは、「鉄砲が通らないようにするため、鉄の船にした」という記述である。つまり、敵の鉄砲攻撃を防ぐ目的で、船に鉄が用いられたというのである。参考までに、次に史料を掲出しておこう(『多聞院日記』天正六年七月廿日条)。
堺浦へ近日伊勢ヨリ大船調付了、人數五千程ノル、横へ七間、竪へ十二三間モ在之、鐵ノ船也、テツハウトヲラヌ用意、事々敷儀也、大坂へ取ヨリ、通路トムヘキ用ト云々、
なお、乗船人数は五千人と書かれているが、これは明らかに多すぎるのではないか。現在であっても、五千人も乗れる船は、数が限られているはずである。鉄甲船が六隻あったことを考えれば、全体で五千人が乗船できたと思われ、つまり一隻あたり八百人前後と見るのが妥当だろう。
実は、その二年前、信長方の船団は毛利水軍の「ほうろく火矢」という火薬兵器によって炎上する被害を受けていた。鉄甲船は、こうした失敗を踏まえて建造されたと考えられる。ただし、船体すべてが鉄で覆われていたわけではなく、重要な部分に限って薄い鉄板を張っていた可能性が高い。
もっとも、『多聞院日記』は一次史料ではあるが、伝聞を書き留めた記事も多く、誤りが含まれることがある点には注意が必要である。筆者の英俊は誤情報については「嘘」と注記するなど、良心的な姿勢も見せているが、記述をそのまま信じることはできない。もちろん、英俊は鉄甲船を実見していない。
一方、尊経閣文庫に伝わる『信長公記』の写本では、鉄甲船の大きさを長さ十八間(約三二・四メートル)、幅六間(約一〇・八メートル)としており、こちらの方が実態に近いとする見方もある。ただし、船の具体的な構造については具体的に書かれておらず、やはり不明な点が多い。
さらに、宣教師オルガンチノの報告書には、鉄甲船がポルトガルの軍船に似ていたと記されている。ヨーロッパ人が驚くほどであったことから、日本の造船技術が高い水準にあったことがうかがえる。ただ、オルガンチノは似ていると書いているが、鉄甲船の具体的な記述が乏しいところに難がある。
いずれの史料にも鉄の装甲について明確な記述がなく、本当に鉄が使われていたのかどうかには疑問も残る。全面装甲ではなかったにせよ、防御上重要な部分に鉄が用いられていた可能性が高いと考えられている。つまり、現代の軍艦のような鉄製でないのは、明らかであるといえよう。
まとめ――鉄甲船をどう評価するか
結局のところ、信長が作らせた鉄甲船の現物は残っておらず、史料の記述も十分とは言えない。そのため、実際には鉄の装甲などなく、南蛮風の黒塗りの船にすぎなかったのではないか、という見方もある。オルガンチノが見たのは鉄甲船でなく、単なる「黒船」に過ぎなかった可能性がある。また、鉄甲船の目的は、毛利水軍を撃滅することではなく、毛利氏が大坂本願寺へ兵糧を運ぶのを妨害することにあったとも考えられている。海上に浮かぶ要塞のような存在として、毛利水軍の行動を抑え込む役割を果たしたというのである。実際、鉄甲船の存在そのものが威圧となり、毛利方は湾内に入りにくくなった可能性が高い。
信長の鉄甲船をめぐる問題は、現在もなお難解である。限られた史料から推測するしかなく、確定的な結論には至っていないのが実情といえよう。いずれにしても、鉄甲船を過大評価するのは危険である。
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この記事を書いた人
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...







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