【秘話】北海道大学の前身に「女学校」があった? 黒田清隆が描いた女子教育の短き軌跡
- 2026/05/15
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日本の女学校の草分けといえば、明治3年(1870)に横浜で設立されたフェリス女学院、明治5年(1872)に東京で設立された東京女学校(お茶の水女子大学の源流)、新英学校及女紅場(現・京都府立鴨沂高等学校の源流)が有名です。しかし、実はもう一校、あの「開拓使」の黒田清隆が心血を注いだ女学校が存在したのです。
女子教育の必要性を説く黒田
明治政府にとって、蝦夷地の開拓はロシアの南下に備える国防の要でした。地名を「北海道」と改め、失業した士族を屯田兵として送り込むなど、近代化を急ぎます。これら事業に関わり、開拓使次官として腕をふるったのが黒田清隆でした。明治4年(1871)1月から5月まで、黒田は政府に欧米の開拓事業調査を命じられて海を渡ります。多数のお雇い外国人招請の道を開きますが、活発で教養ある多くの外国人女性にも出会い、深い感銘を受けます。
「これだ!」
そう直感した黒田は、弁務士としてワシントンに滞在していた森有礼を訪ねて言います。
「君、教養あるアメリカ婦人を妻にしたまえ」
そしてさらには日本の少女をアメリカに留学させようと提案します。森はアメリカ妻の話は断りますが、日本少女の留学には賛同しました。こうして実現したのが日本人少女5人のアメリカ留学で、黒田から託された森がこまごまと世話を焼きました。
この視察の旅で黒田は着想を得ます。
「開拓には人材が必要である。人材養成には教育が重要だ。子供が初めて教育を受けるのは母親だから、母親が良き教育者でなければならない。良き母親を作るには女児に欧米流の女子教育を施さねばならぬ」
「女に学問はいらぬ」という風潮の江戸時代、読み書き・そろばんの基本教育を授けた寺子屋でも、女児の学習年数は男児より短いものでした。明治文明開化の世になると、女子にも教育をと様々な女子教育論が出ますが、「女性自立のためではなく、良き母親になるために女子にも教育が必要」というのが黒田の考えでした。
北海道開拓に取り組む黒田
当時の北海道開拓使は、明治政府の太政官制において、大蔵省・外務省などと肩を並べる独立した中央官庁として位置づけられていました。その最高責任者である「開拓長官」は、他の省の長である「卿(かみ)」や参議と同格の強い権限を有していました。黒田はのちに長官へと昇進しますが、次官時代からすでに主導権を握っていました。明治政府が国策として注力した北海道開拓ですが、当初、協力を求められた諸藩、とりわけ力のある雄藩たちの反応は冷ややかなものでした。なぜ彼らはそっぽを向いたのでしょうか。土地こそ無償で割り当てられたものの、移住費や人件費、建物の建設費、さらには食料確保に至るまで、開拓に必要な莫大なコストはすべて各藩の「自己負担」とされたからです。しかも当時の北海道は米が育たない寒冷地であり、投資が回収できる見込みが立ちません。維新直後の財政難に加え、版籍奉還や廃藩置県による政治的混乱の渦中にあった諸藩にとって、北の大地の開拓にまで手を広げる余裕はどこにもなかったのです。
そこで政府は、黒田に欧米の状況視察を命じます。そこで諸藩による開拓に限界を感じていた黒田が目にしたのは、米国式の大規模な近代農業でした。その光景に深く魅せられた黒田は、アメリカから開拓の専門家を連れて帰国。直ちに「開拓使十年計画」を政府に建議し、明治4年8月に認可を得ます。
これにより、政府は1千万円の莫大な予算を付け、北海道開拓を国家プロジェクトと位置付けました。樺太(サハリン)を視察し、日露の国力の大きな差を目の当たりにしたた黒田は、サハリン開発を放棄し、そのリソースを北海道に集中させて、国家富強の一拠点にするように政府に進言したのです。
女学校は併設校として発足
黒田は北海道開拓を成功させるためには、西洋の近代的な農業技術を身につけた指導者の育成が不可欠なことを確信し、明治5年(1872)3月に農工の仮学校を東京に設けます。芝増上寺の方丈跡に建てられた学校は4月に開校、そのわずか2ヶ月後の6月には念願の女学校を併設、12歳から16歳までの官費生20人を募集しました。特筆すべきは生徒の選出方法です。通常、この種の募集は役人の口添えで行われますが、黒田は開拓使の部下を使って札幌周辺の開拓者の娘たち9人、函館周辺で6人を集め、汽船で東京に送ってしまいます。その中には5人のアイヌ民族の少女らがいました。まだまだ差別が根強く残る時代でしたが、人種を問わず教育を施そうとしたのは、南北戦争後のアメリカを見てきた黒田の方針だったのでしょう。この直後、政府からの官費支給廃止が告げられますが、黒田は「この生徒たちは皆我が開拓使の子供」として一歩も譲りません。9月、開拓使仮学校でこの女学校は発足します。
仮学校は男子は普通科と専門の二科あり、普通科では歴史・英仏語・日本地理・測量などを、専門では鉱山地質・機械舎密・建築測量・農学本草学禽獣学の中から1つを選択します。女学校は普通科だけで、漢学・英語・習字・数学・裁縫を学びます。
さて、無事に発足した学校ですが、開校1年も経たない明治6年(1873)3月、学校は一時閉鎖になってしまいます。話によると、生徒が外国語を理解せず、外国人教師の授業が成り立たないのに怒った黒田が教室に乗り込み、真っ赤になってステッキを振り回し、生徒を追い出して学校を閉鎖したからだとか。しかし生徒は外国語を学んでいる途中ですから、これは無理もないでしょう。
そこで学校の方針を練り直して普通科だけで再出発しますが、その間にも少女たちは外国人女教師について英語を学び、他の教科にも熱心に取り組みます。同年5月には、皇太后と皇后の行啓があるなど世間にも認められます。女学校の制服は洋装だったものを廃して和風の小倉織和装にするなど後戻りしますが、宿舎の食事はパン食に改め、米があまり採れない北海道に適応させるようにしました。
退学者が続出し、女学校は閉鎖
明治8年(1875)7月、東京の開拓使仮学校と女学校は、本来の目的地である北海道に移転し、「札幌学校」「札幌女学校」と改称します。東京から札幌女学校に移ったのは34人で、この中にアイヌ民族の少女はすでにいませんでした。開拓使当局は防寒設備を施した校舎の整備に努め、見張り所を作ってヒグマの襲来に備えます。しかし、女生徒たちにとって北海道の冬は想像を絶する厳しさでした。これに耐えきれずに退学する者が続出し、明治9年(1876)5月2日、生徒数の減少で遂に札幌女学校は廃止。黒田が意図した開拓者に寄り添ってくれる女性の育成計画は、わずか1年足らずで頓挫しました。
この解散と入れ替わるように、同年7月にマサチューセッツ州農学校より招聘したウィリアム・S・クラークが、東京で面接した学生11人を伴って札幌にやって来ました。開拓使学校は「札幌農学校」と名前を変え、クラークを教頭に迎えて8月14日に開校式を挙行します。これが現在の北海道大学です。
おわりに
開拓使女学校入学時、少女たちは次の事を誓約させられました。「卒業後五年間は開拓使に勤務し、北海道開拓者以外とは結婚しません」
つまり、黒田は学問を身に付け、独り立ちできる女性を育てようとしたのではなく、北海道開拓者の伴侶となって夫を支え、強く賢い子供を育てられる良妻賢母となるように教育しようと考えたのです。
現在の価値観からすれば随分な話ですが、良妻賢母養成にしろ、あの時代に女性にも学問を身に付けるべきとした黒田の熱意は否定されるべきではないでしょう。
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