松永久秀はなぜ信長に背いたのか――戦国屈指の梟雄、その決断の真相とは?
- 2026/02/06
渡邊大門
:歴史学者
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松永久秀といえば、戦国時代屈指の「梟雄」として知られる人物である。織田信長の配下にありながら、久秀はたびたび反旗を翻し、最終的には信長に討たれた。なぜ久秀は、あえて信長に背いたのだろうか。その生涯をたどりながら考えてみたい。
京都に近い要衝・大和国の情勢
大和国は京都に近く、中央政局の影響を強く受ける地域であった。天文十五年(一五四六)、筒井順昭が大和一国をほぼ平定することに成功する。しかし、順昭は三年後に病没したので、これが政治情勢の変化をもたらすことになった。筒井家の家督を継いだ順慶は、まだ幼少だった。それゆえ、叔父の順政・順国や外祖父の福住宗職らが順慶を支えたものの、筒井家の支配力は次第に弱体化していったのである。
三好長慶の命により始まった「大和乱入」
この状況を見逃さずに隙を突いたのが、畿内に大きな勢力を誇っていた三好長慶である。長慶が勢力をさらに拡大するには、大和一国を手に入れる必要があった。永禄二年(一五五九)、長慶は腹心の松永久秀に大和侵攻を命じたのである。久秀はまず、河内国守護代・安見直政の居城である河内高屋城(大阪府八尾市)を攻撃し、これに勝利する。勢いに乗った久秀は、そのまま大和へ侵攻した。もはや、誰にも久秀の軍勢を食い止めることができなかった。
合戦の様子は『春日社家日記』にも記されており、松永軍一万余が大和に乱入し、筒井方の領内が焼き払われたという。久秀の圧倒的な勝利だった。これにより、筒井氏は没落を余儀なくされたのである。
大和一国を制圧した軍略家としての才覚
久秀の激しい攻撃により、筒井氏は十分な抵抗ができなかった。久秀は筒井氏の所領を奪い、興福寺が持っていた大和支配の権益も掌握する。以降、久秀は大和一国を支配すべく、さらに戦いを繰り広げた。同年八月、久秀は信貴山城(奈良県平群町)を修繕して本拠に定めると、翌年から本格的な大和国内の制圧戦を展開した。こうして永禄三年(一五六〇)十一月には、大和一国をほぼ平定することに成功したのである。
この功績により、久秀は三好長慶から大和一国を与えられ、眉間寺山に多聞山城(奈良市)を築いて本拠とした。一連の戦いにおける大勝利は、久秀が優れた軍略家であったことを示している。
主君・三好家との決裂と信長への接近
永禄七年(一五六四)、三好長慶が病死すると政治情勢は一変する。久秀は、長慶の後を継いだ三好義継を支える三好三人衆と対立し、激しい抗争に突入したのである。両者の戦いは、各地で繰り広げられた。その後、永禄十一年(一五六八)に足利義昭が上洛すると、久秀は義昭の家臣となり、さらに織田信長と良好な関係を築く。元亀元年(一五七〇)には大和一国の支配を任され、名物茶器「九十九髪茄子」や「不動国行の刀」などを信長に献上した。
信長との関係悪化、そして反旗へ
ところが、元亀二年(一五七一)になると、久秀と信長の関係は急速に悪化する。久秀は三好三人衆と同盟し、さらに甲斐の武田信玄とも通じたとされる。各地の反信長勢力と連携し、信長に反旗を翻したのである。天正元年(一五七三)、足利義昭が信長と決裂すると、久秀は義昭に味方した。しかし、信長に敗れた義昭は追放され、久秀の立場も急速に悪化する。久秀は、義昭の敗北を予想することができなかった。それはそのはずで、義昭はもっとも頼みとする信玄の死を知らなかったのである。
翌年、多聞山城(奈良市)を包囲された久秀は降伏し、城を差し出すことで信長の許しを得た。信長にとって、久秀は大和支配に欠かせない存在だったのであろう。しかし、この信長の判断は、間違いだったのかもしれない。
二度目の裏切りと最期の決断
天正五年(一五七七)八月、久秀は再び信長に背く。信長は松井有閑を派遣して理由を探らせたが、久秀は面会を拒否し、説得にすら応じなかった。久秀に相当な覚悟あったのは事実である。この背景には、毛利氏の庇護下にあった足利義昭が、各地に反信長の檄を飛ばしていた事情がある。久秀もまた、その呼びかけに応じたと考えられる。今度こそは負けないという、強い確信があったのだろう。
信長は嫡男・織田信忠を総大将とし、筒井順慶勢を主力とする軍を派遣した。信貴山城はたちまち包囲され、久秀は追い詰められた。もはや、久秀に勝ち目がなかったのは、誰の目にも明らかだった。
「平蜘蛛茶釜」とともに散った梟雄
信長は久秀に対し、名器「平蜘蛛茶釜」を差し出せば助命すると伝えた。当時、茶の名器は、一国に値するといわれていた。だが、久秀はこれを拒絶し、「釜と首、いずれも信長に見せるつもりはない」と言い放ったという。信長は久秀の孫二人を処刑し、総攻撃を開始した。もはや形勢は明らかだった。久秀は天守で平蜘蛛茶釜を叩き割り、十月十日に爆死したと伝えられている。茶釜に爆薬を仕込んで、自爆したという説もあるが疑わしい。
まとめ――久秀の判断は本当に誤りだったのか
松永久秀の最期は悲劇的である。しかし当時、反信長の勢力は各地に存在しており、久秀も「勝てる」と判断した上で行動した可能性が高い。大坂本願寺、足利義昭、毛利輝元らの反信長勢力は、たしかに善戦していた。梟雄と呼ばれた久秀の生涯は、戦国時代の不安定な権力構造と、武将たちの苛烈な選択を象徴していると言えるだろう。その後、次々と反信長の兵を挙げた武将があらわれたが、ことごとく失敗したのである。


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