※『信長公記』より
美濃国と近江国の境に山中(=岐阜県不破郡関ヶ原町)というところがあり、その道のほとりで、身体に障害のある者が雨露にうたれ、乞食をしていた。
信長は京都への行き来にこれを見ていて、たいそう哀れに思っていた。
そんなある時、信長は乞食に対して不審をいだき、町のとある者にふと聞いてみたときのことである。
── ある日 ──
たいてい乞食というものは、住まいを定めずに各地をさすらい歩くものだが・・
あの者(=乞食)はいつもこの地におる。何かワケでもあるのか?
はい。昔、この山中の宿で常盤御前(=源義朝の妾、義経の母)が殺されました。
その報いによって殺した者の子孫は代々、身体に障害をもって生まれ、あのように乞食をしております。
世間でいう〝山中の猿〟とは、あの者のことでございます。
そうであったか・・・・。
そして、やがて信長は6月26日に急に上京することになった。
--上京に向けて出発--
こうした多忙の最中、信長は乞食のことを思い出して、木綿二十反を自ら用意してお供の者に持たせた。
そして上京途中の山中の宿で馬を止めると、お供の者に以下のように命じた。
この町の者ら全員を出頭させるように触れを出せ。言いつけることがある。
町の人々はどんなことを言いつけられるのかと、おそるおそる出頭したところ、信長は木綿20反を乞食のために下賜し、町の人々にこれを預けた。
ざわざわ・・・
そなたら。この木綿の半分を費用にあてて近所に小屋を作り、この者を住まわせて、飢え死にしないように面倒を見てやるのだ。
ざわざわざわざわざわ・・
そして近隣の者たちは、麦の収穫があったら麦を1度、秋の収穫後には米を1度、1年に2度ずつ毎年、負担にならぬ程度に少しずつ、この者に分け与えてくれれば、わしはうれしく思う。
と言った。
うううっ・・なんとありがたい事じゃ~(涙)
この信長の恩情に、乞食の ”猿” はいうまでもなく、町の人々も泣かぬ者はなかった。そして信長のお供の者たちも皆、涙を流し、それぞれ少しの銭を拠出したのであった。
町の人々はお礼の言いようもない様子であり、 "情深い信長には神仏の加護があり、きっと一門は末長く栄えるだろう" と思ったのであった。