【奈良県】多聞山城の歴史 大和国支配のために松永久秀が築城、のちの近世城郭の先がけとなった!
- 2022/05/25
築城後わずか16年で破却され、現代でも復元もされていないお城が奈良県奈良市にそびえていた幻のお城・多聞山城(たもんやまじょう)です。
戦国時代の下克上の代表格とされる梟雄「松永久秀」によって築城され、織田信長が安土城を築城する際に参考としたと伝わるほど壮大華麗で、近世城郭の先がけでした。今回はそんな幻の名城・多聞山城の歴史についてお伝えしていきます。
戦国時代の下克上の代表格とされる梟雄「松永久秀」によって築城され、織田信長が安土城を築城する際に参考としたと伝わるほど壮大華麗で、近世城郭の先がけでした。今回はそんな幻の名城・多聞山城の歴史についてお伝えしていきます。
大和制圧の拠点となった多聞山城
摂津守護代であった三好長慶が、主家であり室町幕府の管領である細川氏を圧倒して近畿に勢力を拡大すると同時に、長慶の重臣で台頭したのが松永久秀でした。久秀は大和を支配すべく京都や堺にも通じる要衝である佐保山(眉間寺山)に大和制圧のために堅牢な多聞山城を築城しました。
建設作業は永禄2年(1559)から永禄3年(1560)にかけて行われます。城郭はかなり先進的なもので、『多聞院日記』には後の天守に相当する四階櫓が築かれたことが記されており、また、塁上に長屋造りを設けてこれが多聞櫓の始まりとされています。
さらに屋根は火矢による攻撃から守るために国内のお城では初めて瓦葺きが用いられ、城壁も鉄砲の攻撃を防ぐよう漆喰塗りとなっていることから、多聞山城は近世城郭の先がけであったことがわかります。多聞山城は、築城の名手であり、天才的な発想を持った久秀ならではの斬新なお城だったのです。
久秀は永禄10年(1567)には信長より大和の支配権を認められ、多聞山城は戦略的にも、政治的にも大和の中心地となりました。
宣教師が訪れて高く評価した
多聞山城がいかに絢爛豪華だったのかは世界的にも知られています。イエズス会の宣教師が多聞山城を訪れ、様子を記して後世に伝えているからです。訪れた宣教師はルイス・デ・アルメイダで、永禄8年(1565)に多聞山城に招待されています。ルイス・デ・アルメイダはこの多聞山城を絶賛しており、都でもこれほど美しいものを見たことがない、世界中にもこれほど美しいものはないと書簡に記しています。特に庭園とそこに植えられている樹木に高い評価をしました。その内容はルイス・フロイスの『日本史』に記されています。
久秀は茶の湯の道にも通じていた人物だったので、城内にはふたつの茶室を備えており、信長がうらやむほどの名器の茶道具が置かれていました。防御的機能だけでなく、文化的な側面から見てもとても価値のあるお城であったことがよくわかります。信長はこの多聞山城を参考にして安土城を築城したことがわかっています。
政治においても、合戦においても革新的なことをどんどん吸収し実行に移す信長は、この多聞山城を見て安土城を建てたいという思いを抱いたのかもしれません。
わずか16年で破却される
多聞山城を築城した後の久秀ですが、大和の国衆の筒井順慶らの軍勢に押され苦戦します。永禄11年(1568)には多聞山城の西に位置する信貴山城を失いましたが、信長の協力を得て、すぐに奪還に成功しました。しかしその後に順慶が信長に降伏し、同格の扱いを受けたこともあり、天正元年(1573)に信長包囲網に加わって謀反を起こします。年末には信長の軍勢に包囲されて降伏。このときに多聞山城を明け渡し、明智光秀や佐久間信盛が入城しています。
その遺構が残っていたら多聞山城は間違いなく人気スポットになっていたでしょうが、残念ながら現代では何も残っていない状態です。その理由は信長が多聞山城を徹底期に破壊するよう命じたためです。
天正4年(1576)に安土城が完成しており、壮大華麗なお城は安土城だけで充分であり、自分が久秀の真似をしたことを後世に残したくはなかったからだと考えられます。こうして久秀によって築城された天下の名城は、わずか16年という短い期間で消滅してしまいました。
ただし、信長はすぐに破却するような指示はしておらず、久秀から多聞山城を接収した後は塙直政が大和守護となり、多聞山城の城主となりました。しかし、天正4年(1576)に本願寺勢との戦いで直政は鉄砲の弾を受けて討ち死にしてしまいます。替わって大和守護となったのが順慶で、信長はここで多聞山城の破却を命じました。ちょうど安土城完成と同じ時期のことです。
多聞山城の主殿は京都の旧・二条城に用いられ、石垣は筒井城、さらに郡山城に運ばれています。なお久秀はこの後、天正5年(1577)にまたも謀反を起こし、信貴山城で自害しました。
接収して破却するまでの期間、天正2年(1574)には信長自らが多聞山城に入城しており、天下の名香である蘭奢待を正倉院からこの多聞山城に運び込ませ、切り取って家臣らに鑑賞させたと『信長公記』には記されています。蘭奢待を披露するほどの華麗さが多聞山城にはあったということでしょう。
現代までの多聞山城跡の経緯
明治維新時の廃城令によって破却されたお城の多くが現代では復元されて観光スポットとなっていますが、多聞山城についてはそういった動きはまったくありません。戦国時代、江戸時代を通じても一度も多聞山城の復元は行われませんでした。豊臣秀吉が一度、大和の拠点として多聞山城跡を整備しようと試みて普請する大名の割り当てまで決まっていましたが、実行されずに廃城扱いとなっています。
多聞山城跡は江戸時代には屋敷が建ち並び、練兵場として活用されており、地形は当初のまま維持されていましたが、昭和23年(1948)に多聞山城跡地に若草中学校が建てられて、さらに昭和53年(1978)に新校舎建設工事によって残されていた土塁跡も無くなってしまいました。
多聞山城跡の発掘調査は、この2回の工事の際に行われており、東大寺と記された瓦などが発見されています。
現代までの歴史の推移を振り返ってみても復元のための市民運動などは見られないので、おそらく今後も多聞山城が復元されることはないのではないでしょうか。
おわりに
安土城自体が幻のお城ですが、実はその安土城の模範となった先進的なお城が大和にあったということは驚きです。松永久秀という戦国大名の名前を聞くと、野心の塊で、寝返りや裏切りを易々と行える狡猾な武将というイメージが強いですが、もしもこの多聞山城が残されていたとしたら、久秀のイメージも変わっていたかもしれません。安土城も見てみたいですが、多聞山城がどれほど豪華絢爛だったのかもぜひ見てみたいものです。歴史文化溢れる奈良ですので、観光の名所は数々ありますが、跡形も無くなってしまった多聞山城跡を訪れて、その姿を想像してみるのも面白いのではないでしょうか。
補足:多聞山城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
永禄2年 (1559) | 翌年にかけて松永久秀によって築城される |
永禄8年 (1565) | イエズス会宣教師のルイス・デ・アルメイダが来訪 |
永禄10年 (1567) | 織田信長より大和の支配権を認められ、大和の政治の中心地となる |
天正元年 (1573) | 久秀は信長に叛旗を翻すが降伏し、城を明け渡す |
天正2年 (1574) | 信長が入城し、蘭奢待を切り取って鑑賞 |
天正3年 (1575) | 塙直政が城主となる |
天正4年 (1576) | 本願寺勢との戦いで直政が討ち死。筒井順慶が大和守護となり、信長より破却を命じられる |
昭和23年 (1948) | 跡地に若草中学校が建設される |
昭和53年 (1978) | 校舎新築のため土塁の遺構も取り壊される |
【主な参考文献】
- いかす・なら 多聞城
- コトバンク
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