一度の航海で1億円!?江戸の動く総合商社「北前船」が命がけで挑んだ一攫千金
- 2026/06/26
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北前船(きたまえぶね)とは、江戸時代中期から明治時代にかけて、大坂と北海道を日本海経由の「西廻り航路」で結んだ交易船のことです。日本海の荒波を乗り越え、蝦夷(えぞ)の地に内地の産物を届ける。そして、蝦夷の珍しい産物を大消費地である上方に持ち帰る――。最盛期の江戸後期から明治初期には、数百隻もの船が行き交っていました。
始めたのは近江商人
蝦夷地の珍しい産物を大消費地である上方へ運び、本州の産物を蝦夷地へ運んで交易する。大きな商機を見出した彼らですが、荷駄や人夫を使って蝦夷から上方まで長い陸路をはるばる運んでいては、大した儲けになりません。「ここは勝負だ」と、彼らは海路に目をつけました。船で運べば、陸送の何倍もの荷物が一気に運べます。米の取れない蝦夷地で内地の米は高く売れ、蝦夷の珍しい産物は内地で奪い合いになるはず。借金をして船を仕立てても、うまく行けば数年で返済できる――こうして誕生したのが北前船でした。
船出
建造された船は大坂の木津川河口に係留され、ここが北前船の出発地点となりました。出港は3月末から4月初旬で、年に一往復の航海です。船の種類は様々で、櫓(ろ)と帆を併用した大型の「北国船(ほっこくぶね)」や、小型で一枚帆の「弁才船(べざいせん)」、明治になると西洋帆船や蒸気船も登場しました。
蝦夷からの戻り船の積み荷の一部は、敦賀や小浜で荷揚げされ、琵琶湖の水運を使って上方へ運ばれました。そのため、船乗りには越前や加賀・能登など北陸の者が多く雇われます。まだ雪も消えぬ早春の北陸で、村の船乗りたちは一斉に大坂へ向かいました。
全国の物資が集まる大坂で、米や酒・砂糖・綿・薬・鉄製品・漆器・古着などの商品を船いっぱいに積み込みます。途中、兵庫・下津井・多度津・尾道と瀬戸内の港に立ち寄り、塩や素麺・酢・畳表などその土地の産物を買い付けました。瀬戸内海を通り、関門海峡から日本海に出て、港々に立ち寄りながら酒や米を買い足し、蝦夷地を目指したのです。
南風に乗れば船は滑るように進み、一ヶ月余りで蝦夷に着きますが、風が無ければ間切り帆走でジグザグにしか進めず、2ヶ月以上かかることもありました。そんな時は無理に進まず、佐渡の相川や能登の福浦、越後の直江津などで風を待ちました。
しこたま儲けた北前船は初冬に大坂へと戻り、懐の温まった船乗りたちは、上方で珍しい土産物を買い込んで故郷の村へと帰っていきました。
買積み方式
北前船は、一度の航海で「千両(現在の価値で数千万円〜1億円相当)」もの利益を上げたと言われています。なぜそれほど儲かったのか。それは「買積み(かいづみ)方式」という、独特の経営形態をとっていたからです。これは、立ち寄った港で積み荷を売り捌き、その売り上げ金でさらにその土地の産物を買い込みながら航海を続けるシステムです。北前船は船主と荷主が同一であることが多く、船主自身が船に乗り込み、売り買いを繰り返しながら蝦夷地を目指しました。いわば、経営責任者と従業員、そして商品をひとまとめに乗せた「移動する総合商社」です。経営判断を下す者が常に現場に立ち会い、利益も損益も船一隻の中で完結していました。積み荷の売り時・買い時を見抜く才覚がものを言う、ハイリスク・ハイリターンの商売だったのです。
初夏、松前・江差・箱館(函館)の港に北前船の白帆が立ちます。蝦夷地はニシン漁の最盛期。夏の盛りまで錨泊(びょうはく)する北前船は、ニシンや昆布を大量に仕入れました。当時は捨てるほど獲れたニシンは、畑の優れた肥料(鰊粕)となり、本州で売れば買値の十倍以上の値がつきました。アワビ、昆布、サケ、ニシン、ラッコやクマの毛皮といった蝦夷地の産物は、松前藩にとっても貴重な収入源となったのです。
戻りの航海こそが、商売の本番です。蝦夷地で買い付けた海産物の一部を東北や北陸で米に買い替え、その米をさらに西日本で売る。西日本で重宝される良質の昆布や、綿花栽培に必須の肥料である干鰯(ほしか)・鰊粕(にしんかす)、そして塩鮭や棒鱈などは、上方や瀬戸内地方で非常に高く売れました。
このように次々と商品を積み替えながら利益を膨らませていく、船主の素早い決断力が問われる「買積み方式」こそが、莫大な富の源泉でした。
後発商人が参戦、船頭も一枚加わる
北前船の交易が巨万の富を生むのを見て、周囲の者が黙っているはずがありません。越前・若狭・加賀・越中・出羽などの日本海沿岸の商人たちが、こぞって船を仕立てて北前船商戦に参入します。なかでも加賀の豪商・銭屋五兵衛は、9隻もの船を所有していたと言います。これらの地方は蝦夷地と比較的近いため、「買積み」の機会は少ないのですが、長い航海に伴う遭難リスクも負わずに済みました。また、雇われた船乗りたちが、近江の商人が自分たちの労働力を頼りに大儲けしているのを見て、「他人に雇われるより、自分たちで商売をやった方がいい」と考えるのは自然の流れでした。特に「船頭(せんどう)」は、多くの荒くれ者たちを指図し、船の航行に全責任を負うため、極めて優秀で頭の切れる男が選ばれました。そのため、船頭には船内に一定のスペース(枠)が与えられ、そこに自分で買い込んだ商品を置いて商売をし、個人の利益にすることが許されていました。
さらに、何隻もの船を持つ船主はすべての船に乗り込むことができないため、信頼できる船頭に航行から船員の統率、積み荷の売り買いまで一切の権限を任せました。こうして大きな裁量権を持った船頭たちは、元手を蓄えると自前で中古船や小型船を買い、覚えたての商売を自ら始めていったのです。
命を的にした儲け仕事
「積めるだけ積みたい」――高値で売れると分かっている産物を山のように積み上げて船出しますが、日本海の荒波によって転覆する船が続出し、多くの男たちが命を落としました。それでも無事に大坂へ戻れば、一度の航海で得られる利益は千両を超えます。一から船を建造して商売を始めたとしても、船の建造費はすぐに返済でき、3年目からは丸儲けだったそうです。台風シーズンが来る前に日本海を抜けて瀬戸内海へ入るため、8月中にはすべての船が蝦夷地を離れました。それでも、予期せぬ嵐に巻き込まれることは日常茶飯事でした。津軽(青森県)の円覚寺には、当時の生々しい記憶を伝えるおどろおどろしい額が奉納されています。そこには、人間の髪の毛で作られた髷(まげ)が数束、額板に括り付けられているのです。幕末のものですが、今なお艶やかな髪が生々しさを伝えています。これは、激しい嵐に遭いながらも奇跡的に命拾いした船乗りたちが、神仏への感謝の証として自らの髷を切り落として捧げた「髷額(まげがく)」と呼ばれるものです。
強風を避けたり、潮の流れが変わるのを待ったりするために、船が一時的に停泊する日本海側や瀬戸内海の天然の入り江や風待ち港(かぜまちみなと)では、遊女たちが待ち受け、港に生きる男たちを慰めました。能登の福浦港を見下ろす崖の上には、「腰巻地蔵」と呼ばれるお地蔵様が祀られています。地蔵に遊女たちの腰巻を巻き付け、「地蔵を怒らせて海を荒らし、船出を延ばして男たちを港に引き留めたい」と願った切ない祈りの跡です。
おわりに
昆布の産地である北海道から遠く離れた西日本、特に関西で、なぜ昆布ベースの「出汁(だし)文化」が根付いたのか。その背景には、北前船が果たした役割が大きいのです。蝦夷地の大量の昆布が上方に持ち込まれ、食材本来の風味や味わいを生かした繊細な和食味を下支えしました。日本の流通と食文化を文字通り大改革した北前船でしたが、やがて汽船の普及と大切な商品だったニシン漁獲量の激減により、明治30年代にその歴史に幕を閉じました。
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