【豊臣兄弟!】家康へ嫁ぐため強制離縁…妹あさひ(朝日姫)の数奇な生涯

  • 2026/02/17
朝日姫の肖像(出典:wikipedia)
朝日姫の肖像(出典:wikipedia)
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 現在放送中のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』。仲野太賀さん演じる主人公・小一郎(秀長)の傍らで、ひときわ目を引くのが、妹のあさひ(演:倉沢杏菜さん)です。

 劇中でのあさひは、豊臣きょうだい(とも、藤吉郎、小一郎、あさひ)の末っ子として、家族の緊張を和らげるような明るく天真爛漫なキャラクターとして描かれています。第5回「嘘から出た実(まこと)」では、前原瑞樹さん演じる夫・甚助(副田吉成)と睦まじく、等身大の幸せを噛みしめる姿が映し出されました。

 その後の彼女はどんな生涯をたどるのか。今回はドラマの「あさひ」のモデルとなった実在の人物・朝日姫(南明院)について、その数奇な生涯を深掘りします。『豊臣兄弟!』を楽しむ参考になれば幸いです。

4人は本当に「実のきょうだい」だったのか?

 あさひは天文12年(1543)、なか(演:坂井真紀/後の大政所)の娘として尾張国に誕生しました。

 これまでは、母なか が最初の夫・木下弥右衛門と死別した後、再婚した「竹阿弥(ちくあみ)」との間に設けた娘である……とされてきました。つまり、長女の とも(演:宮澤エマ)や次男の藤吉郎(演:池松壮亮)とは「異父きょうだい」にあたる、という解釈です。

 しかし、木下弥右衛門が亡くなったのは、あさひが誕生した天文12年です。死別して即座に再婚し、その年に子供が生まれるというのは、当時の慣習的にもかなりの無理があります。こうした矛盾点から、竹阿弥は木下弥右衛門が出家した際の名前であり、あさひは木下弥右衛門の娘と言われるようになっています。

 従来は竹阿弥の子であり、ともや藤吉郎とは異父きょうだいであったとされる小一郎についても同様に、四人みんな実のきょうだいだったと言えるでしょう。

副田吉成(甚助)との結婚生活は?

 あさひの事績について、天正14年(1586)以前のことは、ほとんどわかっていません。彼女が甚助こと副田吉成(そえだ よしなり)と結婚した時期も不明です。ただ、副田吉成が藤吉郎秀吉から「吉」の偏諱を賜わって「吉成」と称していることから、秀吉がある程度出世した時期(例えば近江長浜城主となった頃など)に婿入りしたものと考えられます。

 結婚前は母なかと一緒に暮らしていたであろう あさひ は、結婚後は夫の吉成と一緒に過ごすようになったことでしょう。やがて武功を重ねた吉成が、天正5年(1577)に但馬国の指杭城(さしくいじょう。兵庫県新温泉町)を与えられると、あさひも移り住んだものと思われます。

 しかし喜びも束の間、天正10年(1582)に京都で本能寺の変が勃発。織田信長(演:小栗旬)が横死を遂げた混乱に乗じて、但馬国内で海賊たちが蜂起しました。

 吉成は海賊たちに指杭城を奪われ、命からがら秀吉の元へ逃げ帰るという失態を犯しています。後に指杭城は宮部継潤(演:ドンペイ)が奪還したものの、秀吉は吉成の失態を許さず、婿としての地位を剥奪しようと考えたそうです。そして天正14年(1586)に徳川家康(松下洸平)へ嫁がせるため、秀吉はあさひと吉成を強制的に離縁させました。

 この政略結婚は秀吉が家康に持ちかけたと言われてきましたが、近年では家康の方から秀吉に持ちかけたとする説もあるようです。もっとも「兄の都合で振り回される」あさひ とすれば、どっちでも変わらなかったことでしょう。

 江戸時代の随筆『塩尻』によると、秀吉は吉成に対して5万石と引き換えにあさひと離縁するように迫り、吉成は「武門の本意にあらず」と出家したと言います。

 要は「5万石で妻を売り渡せ」と言われているようなものですから、たとえ天下人の命令であろうと、堪え難い屈辱だったに違いありません。さりとて逆らえばタダではすまず、となれば抗議の意味で出家したのは、吉成にとって武士の意地を見せたと言えるでしょう。

 ちなみに近年では天正10年(1582)ごろ、既に離縁していたという説もあり、これは指杭城を攻め落とされた際、自分をしっかり守れなかった夫に愛想を尽かしたのかも知れませんね。

家康との結婚生活は?

 さて、徳川家康と政略結婚をさせられたあさひは、駿河国の駿府(静岡県静岡市)に居を構えたことから「駿河御前」と呼ばれるようになりました。これまで秀吉の難敵であった家康も、妹婿(義弟)となれば、さすがに臣従を誓って上洛するだろう……と思ったものの、家康はそれでも上洛しません。

 妹を人質に出してもダメなら、今度は母親を出すしかない。ということで、秀吉はあさひを訪ねる名目で、母なかを家康の元へ送りました。実質的に人質です。ここまでされた家康は、ようやく上洛して秀吉に臣従を誓ったのでした。

 あさひはその後、天正16年(1588)に母なかを見舞うために一時上洛、その後も再び上洛してそのまま聚楽第に住むようになります。家康と離縁した訳ではないものの、人質として駿府に身柄を拘束する必要がなくなったのでしょう。

 天正17年(1589)11月に病を患い、翌天正18年(1590)1月14日に48歳で世を去ったのでした。晩年のあさひは病気がちだったことから臨済宗に帰依し、その法名を南明院殿光室宗王大禅尼(なんめいいんでん こうしつそうおうだいぜんに)と号しています。

 あさひが亡くなった当時、家康は小田原北条氏を征伐するための出陣準備中でした。そのため、将兵の士気に障らぬよう(縁起が悪いと士気が下がるから)喪を秘して東福寺(京都府京都市)に葬ります。

 東福寺の塔頭に建立された南明院は、家康があさひの菩提を弔うために建立したもので、後に徳川将軍家の菩提寺とされました。また駿府の瑞龍寺にも、あさひの遺骨を分けた墓が建立されており、これは秀吉が建てたとも家康が建てたとも言われているそうです。

 果たしてどっち(あるいは共同)だったのでしょうか。ちなみに瑞龍寺は曹洞宗で、こちらでの法名は瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼(ずいりゅうじでん こうしつそうきょくだいぜんじょうに)。宗派の異なる複数の寺で供養されると、法名に違いが出るのですね。

 それにしても、もう半年ほど命を永らえられたら、兄たちの天下一統を見届けられたのに……と思う一方、あさひはそんな事に興味を持たなかったかも知れませんね。

あさひの夫は佐治日向守だった?

 『武徳編年集成』では、あさひの夫として、副田吉成ではなく佐治日向守(さじ ひゅうがのかみ)の名を挙げています。

 秀吉の命令によってあさひを離縁するよう迫られたのは同じですが、日向守は天下公益のためならばと進んで離縁しました。そして自分が生きていては後に支障があるかも知れないから、と自害してしまったのです。

 このエピソードは『御年譜微考』や『三河後風土記』そして『大日本野史』にもありますが、実際は秀吉の命令で離縁させられた佐治一成(さじ かずなり)のエピソードと混同されたのではないかと考えられています。

おわりに

 今回は豊臣きょうだいの末っ子・あさひについてその生涯をたどってきました。兄の政具として夫と離縁させられた心中は、察するにあまりあるものです。果たしてこれを大河ドラマではどう描くのか……今後の展開に注目ですね。

【参考文献】
  • 小和田哲男『豊臣秀吉』(中央公論社 1985年)
  • 杉山博(編)ほか『豊臣秀吉事典 コンパクト版』(新人物往来社 2007年)
  • 福田千鶴『江の生涯 徳川将軍家御台所の役割』(中央公論新社 2010年)
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  この記事を書いた人
鎌倉の最果てに棲む、歴史好きのフリーライター。時代の片隅に息づく人々の営みに強く興味があります。 得意ジャンル:日本史・不動産・民俗学・自動車など。 執筆依頼はお気軽にどうぞ!

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