【豊臣兄弟!】織田信長は大沢基康の投降をなぜ許したのか?
- 2026/02/16
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大河ドラマ「豊臣兄弟」第6回は「兄弟の絆」。
永禄6年(1563)2月、織田信長は居城を清須から小牧山に移し、その後、美濃国の諸城を攻略していきますが、『太閤記』(江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が記した秀吉の一代記)には鵜沼の城主・大沢次郎左衛門(基康)を調略したのは秀吉だったと記されています。同書には大沢の調略に成功した秀吉は「その方の謀略が優れていたのだろう」と信長に誉められています。
翌年の正月、年賀のため清須を訪れた秀吉は大沢を同伴していましたが、信長は秀吉に対し「大沢を殺す」ことを示唆しました。信長は大沢の変心を警戒したのです。秀吉は大沢を殺せば今後二度と調略により投降してくる者はいなくなると主張しますが、信長はそれを受け入れず。秀吉は宿所に帰り、大沢に身に危険が迫っていることを報じ、自分を人質にしつつ、逃亡することを提案するのでした。大沢は秀吉の胸元に脇差を当てつつ、逃亡したと『太閤記』には記述されているのです。
一方、『武功夜話』(尾張国の吉田家に伝わる先祖の武功を記した古記録。偽書との説もあり)でも大沢は秀吉を通して信長に投降してきますが、信長は度々刃向かってきた大沢に怒り心頭、「後の世の見せしめに」大沢の首を直ちに刎ねよと厳命するのでした。しかし結局、信長は大沢の一命を助けています。大沢の鵜沼の城は「四百余人」が堅める堅城であって、それを攻略するとなると難儀。戦にて損失を出すよりは大沢の投降を許し「和談」することを優先したのでしょう。
また同書によると秀吉は鵜沼の城中にいたので、信長が大沢を殺せとの指令を出したとなると秀吉の身も危うくなります。信長に大沢の助命を注進した坪内喜太郎は秀吉の身を案じていたとのこと。その後、秀吉は信長と面会し、大沢を助命してくれた事への感謝を伝えますが、それについては信長は無言だったようです。
信長としては本当ならば大沢を叩き切りたかったのでしょうが、その怒りを抑え込んで許したことを態度で示したのでしょう。『武功夜話』には『太閤記』に記されたような清須での出来事は記載されていませんが、本当ならば大沢を許したくなかったとの信長の思いだけは伝わってきます。
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