【豊臣兄弟!】秀吉の一代記『太閤記』は「墨俣一夜城」築城をどのように描いているのか?
- 2026/03/02
- ※本記事は一部にプロモーションを含みます
大河ドラマ「豊臣兄弟」第8回は「墨俣一夜城」。『太閤記』(江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が記した秀吉の一代記)には敵地の美濃国に要害を構築するとの難事業に織田家臣の秀吉が手を挙げたと書かれています。主君・織田信長は秀吉の「大志」を称賛したと言います。秀吉は野武士たちの中でも優れた者を選び出して、それらの人々を活用し、要害を構築、守備させることを信長に進言していました。
永禄9年(1566)7月5日、信長は大小の長屋十、櫓十、塀二千間、柵木5万本の材料を来月二十日までに仕立てることを作事奉行に命じます。その作業は期限よりも早くできたようです。よって信長は老臣共を招集し「伊勢国(美濃国の誤り)に侵入し、要害を拵えようと思う。国中の軍勢を3つに分け、一方は敵の攻撃を抑えることにする。そして残りは要害の普請に当たれ」と下知します。老臣もそれに賛同。
同年9月1日、織田軍は木曽川の北方の渡り口より上手に要害の資材を運んで筏で運ぼうとします。大量の資材が山の如く見えたと『太閤記』は記しています。同月5日の未明に美濃国に侵入した織田軍は、城を作ろうとする場所に柵を構築しました。その上で城を築こうとしたのです。
勿論、敵方(美濃斎藤氏)がそれを黙認するはずもなく、井ノ口(岐阜)から8千余騎が押し寄せてきます。信長は敵方は大軍ということで柵の外に出て応戦することを禁じます。弓や鉄砲でのみ防戦させたのです。敵の首を取ることよりも、要害を早急に築くことこそ肝要と説いたのでした。織田軍は敵方を矢でもって防ぎ、なおかつ、普請担当の者は昼夜関係なく働き、同月7日か8日頃には城はほぼ完成します。これにより、敵勢も戦意喪失したと『太閤記』は記述しています。
織田方は新築の城に武器・食料を運び込みました。この城に信長は秀吉を入れ置いたと『太閤記』は書いています。秀吉が敵地に城を築くと名乗りを挙げた割には、同書にはそれに関する秀吉の活躍などは記されていません。これまで見てきたように信長が様々下知し、無事に要害を構築したことが書かれているのです。また同書には城が築かれた場所や城名については記されていません。
コメント欄