『豊臣兄弟!』で注目の前野長康(演:渋谷謙人)…蜂須賀正勝との熱き絆、そして待ち受ける非業の末路とは?
- 2026/03/04
- ※本記事は一部にプロモーションを含みます
大河ドラマ『豊臣兄弟!』にて、渋谷謙人が演じている前野長康(まえの ながやす、将右衛門)。故あって義兄弟だった蜂須賀正勝(演:高橋努)と決別していましたが、木下藤吉郎秀吉(演:池松壮亮)の墨俣築城作戦を通じて、再び力を合わせるようになりました。
今回はそんな前野長康について、その生涯をたどってみたいと思います。皆さんが大河ドラマ『豊臣兄弟!』を楽しむ参考になれば嬉しいです。
今回はそんな前野長康について、その生涯をたどってみたいと思います。皆さんが大河ドラマ『豊臣兄弟!』を楽しむ参考になれば嬉しいです。
信長へ仕える前
前野長康は大永8年(1528)、前野宗康(むねやす)の次男として誕生しました。父の宗康は織田伊勢守(いせのかみ)家で奉行を務めており、身分はそこまで低くなかったようです。元服して将右衛門(小右衛門とも)と名乗り、また坪内光景(つぼうち みつかげ)とも呼ばれました。これは坪内勝定(かつさだ)の子であるとする『寛政重脩諸家譜』に基づくものの、両者は8歳しか違わず不自然です。おそらく長康が勝定の娘をもらい、婿入りしたのでしょう。
劇中の「川並衆出身で正勝と義兄弟だった」という設定は『武功夜話』のものです。しかし当書については真偽が議論されており、鵜呑みに信じるわけにはいきません。とは言え荒唐無稽であっても面白ければよかろう、ということで、当書の説が採用されたのでしょう。
織田信長(演:小栗旬)に仕える以前は織田伊勢守家の家臣として武功を重ね、永禄元年(1558)に主家が滅亡すると、父子ともに信長へ帰服しました。長康は信長より馬術の才能を認められ、駒右衛門(こまゑもん)の名を賜ったといいます。
信長の家臣として
かくして信長家臣となった長康は、滝川一益(演:猪塚健太)の下に配属されました。しかし滝川家中の者たちと折り合いが悪く、口論の末に信長から勘当(絶縁・追放)されてしまいます。織田家を飛び出した長康は、松倉城主を務めていた前野時氏(ときうじ)の元に転がり込み、しばらく世話になりました。ちなみに『信長公記』によると、長康は飯尾近江守(いのお おうみのかみ)の下へ配属されており、特にトラブルも起こしていないようです。
永禄3年(1560)になると、駿河国から今川義元(演:大鶴義丹)が上洛の兵を挙げ、織田領へ攻め込んで来るとの風聞が広まりました。長康や正勝らは信長の命で今川領に潜伏し、領民になりすまして諜報活動を行い、義元らの動静を報告します。
そしていよいよ義元が上洛の兵を起こすと、長康らは道々で義元らをもてなし、大いに油断させました。油断した義元が桶狭間で非業の死を遂げたのは、よく知られるとおりです。
やがて父が世を去ると、他家を継いだ長兄に代わって前野家を継いだのでした。
秀吉の家臣となる
長康が秀吉に仕えた時期ははっきりしませんが、はじめは信長から報酬を得ていたようです。名目上は信長の直臣と言えますが、あくまで秀吉の家臣(織田家陪臣)としての立場を守り続けました。永禄7年(1564)の鵜沼城攻めや伊木山城攻めに武功を立て、秀吉の勝利に貢献します。また、永禄9年(1566)に秀吉が墨俣に砦を築くよう命じられると、稲葉山城下に火を放つなど、斎藤方を撹乱する任務にあたりました。その隙に砦を築き上げ、後世に伝わる墨俣一夜城伝説が生まれたと言われます。
その後も永禄11年(1568)の伊勢進攻や観音寺城の戦いに参陣、また元亀元年(1570)には朝倉攻め(金ヶ崎の退口)や姉川の戦いで武功を立てました。
さらに元亀2年(1571)は佐和山城に拠る磯野員昌(かずまさ)を攻略、同年中に比叡山の焼き討ちにも加勢します。
こうして長康は秀吉とともに織田家臣団の精鋭として活躍するのでした。
念願?の城主となる
今度は秀吉が中国地方の攻略に乗り出し、長康もそれに従います。秀吉が播磨国を平定すると三木城を与えられ、龍野城を与えられた蜂須賀正勝ともども城主となりました。この頃から、長康は秀長の配下につけられたようです。天正10年(1582)6月に信長が京都・本能寺で横死(本能寺の変)を遂げると、長康は秀吉に合流して謀反した明智光秀(要潤)を討ちました(山崎の戦い)。
信長の仇討ちを果たしたことで、織田政権における存在感を盤石にした秀吉は、その政権を乗っ取るべく工作を進めていきます。天正11年(1583)には賤ヶ岳の戦いで宿敵・柴田勝家(演:山口馬木也)と織田信孝(信長三男)を敗死させ、続いて翌天正12年(1584)には徳川家康(演:松下洸平)・織田信雄(信長次男)連合と、小牧・長久手の戦いで対峙します。
このとき秀吉は、戦上手の家康を前に苦戦を強いられますが、信雄を懐柔して家康から大義を奪いました。戦う理由を失った家康はこれ以上戦うことが出来ず、やがて秀吉に膝を屈することとなります。
長康は天正13年(1585)の四国平定にも参陣し、着々と武功を積み重ねていきました。
天下一統を見届けるが……
そして長康は天正18年(1590)の小田原征伐にも参陣、織田信雄の指揮下で韮山城を攻略する武功を立てます。攻防の末に北条氏政・氏直が降伏。ここに秀吉の天下一統を見届けたのでした。「永年つき従った甲斐があった……」
きっと長康らは感無量だったことでしょう。しかし秀吉の野望は留まることを知らず、やがて唐天竺(中国大陸・インド)までも掌中にせんと兵を起こします。
才気まかせに暴走しがちな秀吉の抑え役だった秀長(演:仲野太賀)も既に亡く、もはや誰にも止められません。文禄元年(1592)に火蓋を切った文禄の役(第一次朝鮮出兵)でも長康は従軍。海を渡って死闘を繰り広げたのです。
この戦いで多くの一族を失いましたが、武功によって長康は11万石に加増されました。帰国後は豊臣秀次(秀吉の甥で養子。姉ともの長男)の後見を任されますが、文禄4年(1595)に秀次が謀反の疑いで切腹させられます。
このとき、長康も連帯責任を負わされ、自害に追い込まれたのでした。
限りある 身にぞあづさの 弓はりて
とどけ参らす 前の山々
【意訳】弓を取る武士であるから、限りある命を惜しみはしない。ただ梓弓(あずさゆみ)に弦を張って前野一族の亡霊を呼び出し、潔白を証明させたいものだ。
梓弓は弓の美称であるとともに、口寄せ(霊媒)が用いる神具でもあり、死者の霊を呼び出せたそうです。狂気と妄執の虜となってしまった秀吉の犠牲となった長康の無念が偲ばれますね。
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