【豊臣兄弟!】織田信長はどのようにして上洛戦を成功させたのか?

  • 2026/03/16
:歴史学者・作家・評論家
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 大河ドラマ「豊臣兄弟!」第10回は「信長上洛」。永禄10年(1567)、織田信長は美濃の斎藤龍興を追い詰め、ついに稲葉山城を落城させます。美濃三人衆(安藤守就・稲葉良通・氏家直元)が信長に帰順したことで、稲葉山城の龍興は孤立。城を抜け出し、伊勢長島に落ちたのでした。信長は居城を小牧山から井口(稲葉山)に移し、同地を岐阜と改名します。

 信長は永禄8年(1565)頃には足利義昭(13代将軍・足利義輝の弟)を奉じて上洛したいと念願していました。しかし美濃斎藤氏との和睦が上手くいかず、上洛を断念していたという経緯があったのです。美濃斎藤氏を滅ぼした信長は義昭を奉じて上洛することを決意。永禄11年(1568)7月には越前の朝倉氏のもとにいた義昭を美濃に迎える準備をしています。7月25日、義昭は美濃の立政寺に到着し、信長との対面を果たします。その際、信長は義昭に銅銭千貫文、太刀・鎧・武具・馬など様々なものを進呈しました(『信長公記』)。

 8月上旬、信長は近江国の六角承禎に対し、義昭に服することを諭しますが、六角氏はこれを撥ね付けます(義昭側は六角氏に対し、味方すれば幕府の所司代に任じようと約束したとのこと)。これをもって、信長は六角氏の討伐を決定するのです。同年9月7日に岐阜を発した信長は翌日には近江国の高宮に着陣。11日には愛知川の近辺に野営します。信長は馬を乗り回して地理や敵情を視察。六角氏が立て籠っている観音寺山城と箕作山城を攻めることを決断するのです(他にも敵城はありましたが、それは捨て置いて両城を攻めることを命じたのでした)。

概ねの信長上洛ルート(※戦国ヒストリー編集部作成)

 箕作城の攻撃は同月12日。同城を攻めるは佐久間信盛・木下藤吉郎(秀吉)・丹羽長秀・浅井新八ら織田家臣でした。夕方から攻撃は開始され、城は夜に落城します。翌日には六角承禎がいる観音寺山に攻め上る手筈でしたが、承禎やその子供らは逃亡していました。労せずして観音寺山城を手中にしたのです。近江を平定した信長は9月28日には東福寺に着陣し、三好三人衆討伐の軍勢を差し向けます。同日、義昭は清水寺に入りました。三好方は大した抵抗もせずに退散していきました。六角氏や三好方を退散させ、ついに京都に入った信長。10月には、義昭は念願の征夷大将軍に就任します。

【参考文献】
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  この記事を書いた人
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。 武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。兵庫県立大 ...

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