【豊臣兄弟!】織田信長が二条御所の建築現場で見せた「異常」な行動とは?
- 2026/03/30
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大河ドラマ「豊臣兄弟」第12回は「小谷城の再会」。
永禄11年(1568)10月、織田信長は都から岐阜に戻りますが、その際、佐久間信盛・村井貞勝・丹羽長秀・木下秀吉などの諸将を都に残し、その守りと支配を担わせます。三好三人衆(三好政康・三好長逸・岩成友通)の都への襲来により、いわゆる「本圀寺の変」(1569年1月)が勃発しますが、三好方を撃退した後、秀吉と明智光秀・丹羽長秀は都周辺にかかわる政務(紛争の裁定など)を担当しています。
さて本圀寺の変は将軍・足利義昭の命を危険に晒すものでした。よって堅固な将軍御所の造営が信長により開始されます。永禄12年(1569)の1月末には信長は御所造営を決定していますので、信長の決断の速さが窺えます。義昭の兄・義輝(13代将軍)の御所だった武衛陣跡(京都府京都市上京区武衛陣町)に御所は造営されることになりました。これが「二条御所」(二条第)と呼ばれるものです。
ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスは『日本史』において、二条御所造営について言及していますが、二万五千人もの人が建設現場で働いていたようです(少ない時でも一万五千人)。造営を指揮したのは信長でした。建築用の石が足りないという事で、信長は多くの石像を倒し、頸に縄を付けて工事現場に引かせて来させます。信仰心篤い人々は信長のこの所業を見聞し「驚嘆と恐怖」を感じたとのこと。
信長は虎革を腰に巻き、粗末な衣服で指揮をとっていました。フロイスは二条御所の工事現場で信長が見せた恐るべき行動についても記述しています。ある時、一人の兵士が一貴婦人の顔を見ようとして、彼女が被っていた被り物を少し上げたことがありました。ちょっとした戯れだったと思われますが、それを目撃していた信長はその兵士のもとに駆けつけると、自ら兵士の首を刎ねたのです。確かに一兵士の行動は褒められることではないとしても、殺されるようなことはしていません。フロイスは信長のことを「正義において厳格であった」と評していますが、その正義心というのは一種「異常」「異様」なものだったと言わざるを得ません。
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