【豊臣兄弟!】本圀寺合戦はなぜ足利義昭方の勝利に終わったのか?
- 2026/03/24
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大河ドラマ「豊臣兄弟」第11回は「本圀寺の変」。
永禄11年(1568)10月、織田信長に擁されて上洛した足利義昭は、朝廷より征夷大将軍に任じられます。義昭は信長を「副将軍か管領に任じよう」と言いますが、信長はそれを辞退しています。その理由としては信長は義昭とのはっきりとした主従関係になることを避けようとしたとも言われています。
義昭は此度の上洛に際し、粉骨した者らを慰労したいということで能興行を催しました。義昭としては13番も演じさせる積もりでしたが、それに待ったをかけたのが信長でした。信長は「まだ隣国も平定しなければいけない。戦が終わった訳ではない」として5番に縮小することを命じたのです。兎にも角にも能見物は始まります。能が終わると、演じた者たちに信長から引き出物が下されました。
10月24日、信長は岐阜に一旦戻るということで義昭に暇を告げます。翌日、義昭から信長に感状(軍忠を認めて発給する文書)が下されました。それは、今度の上洛戦において諸国の「凶徒」を速やかに悉く退治した事は「武勇天下第一也」と信長の武功を称賛するものだったのです。また国家が安穏に治るように、信長の力に頼る他はないということまで記されていました。宛所には「御父 織田弾正忠殿(信長)」とあり、義昭の信長への敬意が窺えます。
信長は世上はまだ安定していないとして能興行を縮小させたのですが、それは翌年の1月に証明されました。信長により都を追われていた三好三人衆(三好政康・三好長逸・岩成友通)が阿波から渡海、義昭が籠る六条の本圀寺を攻撃したのです。
三好方は5千から1万の軍勢、本圀寺にいた軍勢は僅か2千ほどだったとされます。本圀寺に立て篭もる武将の中には明智光秀もおりました。三好方は大軍だったのですが、本圀寺に籠った武将たちは奮戦。火花を散らすような戦いを展開し、三好方を寄せ付けません。また摂津方面から義昭に加勢する軍勢(細川藤孝や池田勝正など)が現れたという事で、三好方の本圀寺への攻撃は緩みます。三好方は挟撃される形になり、ついに敗退します。三好方は洛中に着いてから本圀寺攻撃まで約3日かかっており、この時間のロスも敗退に影響したとされます。1月6日に岐阜で急報を受けた信長は大雪の中を都に向けて駆けていきますが、同月10日に都に着いた頃には既に戦は義昭側の勝利に終わっていました。

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