金ヶ崎の退き口の虚実…実は家康も「しんがり」?幕府が書き換えた家康主従の奮戦

  • 2026/04/11
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 時は元亀元年(1570)。織田信長は越前の朝倉義景を攻め、3月には金ヶ崎城を攻略しました。
 
 しかし義弟・浅井長政の裏切りによって背後を突かれ、一転窮地に陥ってしまいます。モタモタしていたら袋の小豆……前後を断たれて挟み撃ちになるのは火を見るよりも明らかです。信長は木下藤吉郎秀吉に殿軍(しんがり)を任せ、一目散に逃げ帰りました。これが後世に伝わる金ヶ崎の退き口(かねがさきののきぐち)。信長・秀吉の人生における最大級の危機と言えるでしょう。

 敵の大軍を食い止めて味方を一人でも多く逃がす。そんな難任務を引き受けたのは、秀吉だけではありませんでした。実は友軍として参戦していた徳川家康もまた、殿軍を務めたというのです。

 そこで今回は、江戸時代後期に編纂された『徳川実紀(とくがわじっき)』より、家康主従の奮戦ぶりを紹介したいと思います。

信長逃亡!家康はどうする?

……ことし弥生信長越前の朝倉左衛門督義景をうたんと軍だちせられ(※原文ママ)。又援兵を望まれしかば。君にも遠江三河の勢一万余騎にて。卯月廿五日敦賀といふ所につき給ふ。やがて織田と旗を合せ手筒山の城をせめやぶる。なをふかく攻入て金が崎の城に押よせらるゝ所に。信玄(原文ママ。信長か)のいもと聟近江の浅井備前守長政朝倉にくみし。織田勢のうしろをとりきるよし注進するものありしかば。信長大におどろき。とるものもとりあへず。当家の御陣へは告もやらず。急に朽木谷にかゝり尾州へ迯帰る。木下藤吉郎秀吉にわづか七百騎の勢をつけてのこされたり……
※『東照宮御実紀』巻二 永禄十二年-元亀元年「信長討朝倉義景」

(※)文中の「軍だちせられ」とは「軍出させられ」の誤字か、あるいは「軍立ち(兵を挙げること)」せられたのでしょうか。

 元亀元年(1570)3月、信長は越前の左衛門督(さゑもんのかみ。朝倉義景)を討つために兵を挙げ、家康にも加勢するよう求めてきました。

 要請を受けた家康は、10,000の兵を率いて参陣。4月25日には敦賀へ到着し、まずは天筒山城を攻略します。進撃を続けた信長らが金ヶ崎城へ攻めかかったところ、妹聟の備前守(びぜんのかみ。浅井長政)が裏切り、織田の背後を突くとの急報に接しました。

 「よもやあやつが裏切ろうとは……」信長は大いに驚き、秀吉にわずか700ばかりの兵を預けて殿軍とします。主命とあらば、嫌とは言えますまいね。そして信長自身は取るものもとりあえず、一目散に朽木谷を経由して京へ逃げ帰ったのでした。

金ヶ崎の退き口における大体のルート
金ヶ崎の退き口における大体のルート

 なおこのとき、友軍である家康には何の連絡もなかったそうです。現場の将兵は、はじめ織田の陣中が何やら騒がしいな、くらいに思っていたのかも知れませんね。

秀吉の窮地を救う

……秀吉は君の御陣に来りしかゞゝ(しかじか)のよしを申救をこひしかば。快よく請がひ(うけがい)たまひ。敵所々に遮りとめんとするをうちやぶりうちやぶり通らせ給ふ。されど敵大勢にて小勢の秀吉を取かこみ秀吉既に危く見えければ。㝡前(最前)秀吉が頼むといひしを捨て行むに。我何の面目ありて再び信長に面を合すべき。進めや者どもと御下知有て。御みづから真先にすゝみ鉄砲をうたせたまへば。義を守る御家人いかで力を尽さゞらん。敵を向の山際までまくり付。風の如くに引とりたまふ。椿峠までのかせ給ひ志ばし(暫し)人馬の息をやすめ給ふ御馬前へ。秀吉も馬を馳せ来り。もし今日御合力なくば甚危きところ。御影にて秀吉後殿をなしえたりとて謝しにけり……
※『東照宮御実紀』巻二 永禄十二年-元亀元年「信長討朝倉義景」

 しばらくすると、家康の陣に秀吉が転がり込んで来ました。

秀吉:「徳川様。どうかお助け下され!」

 ここでようやく信長の逃亡を知った家康は、秀吉の殿軍に快く加勢したと言います。どうせ逃げ遅れてしまったのなら、少しでも恩を着せておこうとでも思ったのでしょうか。

 迫りくる敵の追撃を食い止めながら、少しでも自軍を温存しつつ退却する殿軍は、命懸けの難任務です。至るところで退路を遮る敵軍を何度も撃破しますが、見れば秀吉の軍勢が敵の大軍に呑み込まれかけていました。

秀吉:「うあぁ~~ 徳川さまぁ〜っ!お助け下され〜っ!」

 なんて泣き言が聞こえたかどうか。あんな猿でも織田様の家臣ですから、見捨てでもしたら信長に合わせる顔がありません。

家康:「まったく仕方のない猿じゃ。者ども、木下殿をお救い申せ!」

 とばかり家康は敵中に斬り込み、また鉄砲を射かけて尻込みさせました。

 かくして形勢にわかに逆転し、むしろ家康が敵を追い立てるような具合です。しかし家康は進退の機を心得たもの、ある程度まで敵を追うと、機敏に馬首を返して風の如く引きあげました。もちろん秀吉らも回収します。

 後はひたすら駆け抜けるだけ……やっとの思いで椿峠までたどり着いた家康主従は、もう一安心と兵馬を休めました。

 しばらくすると秀吉たちがドタバタと追いついて、家康の前にやって来ます。

秀吉:「まったく此度は命拾いにございました。徳川様のお力添えなくば、はなはだ危ないところ、お陰で殿軍の大役が務まり申した……」

 まさに家康は命の恩人、秀吉は何度も伏し拝んで感謝したのでした。

実はフィクション

 以上が『徳川実紀』の伝える金ヶ崎の退き口ですが、結論から言うと、このエピソードはフィクションです。家康は殿軍など引き受けず、信長に遅れるまじとばかり早々に退却しました。

 秀吉?あんな猿など知ったこっちゃありません。討たれたところで困りもしないでしょう。 ……と言ったら、家康が人でなしに見えてしまうため、そんな事実は書きません。何せ『徳川実紀』は江戸幕府公認の歴史書。後世に書かれた勝者の歴史ですから、徳川家に不都合な点はちょいちょい脚色しています。

 我らが「神の君(東照大権現=家康)」はとことん強く、カッコよくがモットーです。この後の姉川合戦でも、大活躍するのでした。

……かくて信長は浅井父子が朝倉に一味せしを憤る事深かりしかば。さらば先浅井を攻亡ぼして後朝倉を誅すべしとて。また御加勢をこわれしかば。この度も又御みづから三千余兵をしたがへて御出陣あり……
※『東照宮御実紀』巻二 永禄十二年-元亀元年「姉川戦(大戦之一)」

 ひとたび窮地に陥れば盟友すらかなぐり捨てる信長に、よくまた付き合おうと思いますね。

終わりに

 今回は信長・秀吉そして家康の三英傑が窮地に陥った「金ヶ崎の退口」について紹介してきました。『徳川実紀』がフィクションまじりとは言え、彼らが生死の境目をさまよい、駆け抜けたことは変わりません。

 果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では小栗旬(信長)・池松壮亮(秀吉)・松下洸平(家康)の死に物狂いをどう描くのでしょうか。そして小一郎(仲野太賀)の活躍がどう描かれるのかも注目です!

【参考文献】
※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
鎌倉の最果てに棲む、歴史好きのフリーライター。時代の片隅に息づく人々の営みに強く興味があります。 得意ジャンル:日本史・不動産・民俗学・自動車など。 執筆依頼はお気軽にどうぞ!

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