【豊臣兄弟!】姉川の合戦は織田・徳川方の大勝だったのか?

  • 2026/04/20
:歴史学者・作家・評論家
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 大河ドラマ「豊臣兄弟」第15回は「姉川大合戦」。織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との戦(姉川の戦い)が描かれました。

 元亀元年(1570)6月28日、近江国浅井郡姉川(現在の滋賀県長浜市)において戦いが繰り広げられた訳ですが『信長公記』によると、戦は午前6時頃から始まります。同書によると浅井長政の軍勢は5千、朝倉の軍勢は8千であり、合計1万3千の大軍でした。織田・徳川の軍勢については同書には記述がありません。ただ『甫庵信長記』や『三河物語』などから推定すると、織田軍は最大で3万ほど、徳川軍は3千ほどと思われます。これまた大軍であり、浅井・朝倉の軍勢を遥かに上回っていました。浅井・朝倉軍は姉川に向かい攻めて来たので、織田・徳川方と乱戦になります。

 『信長公記』はそれを「推つ返しつ散々に入りみだれ、黒煙立て、しのぎをけづり、鍔をわり、爰かしこにて思ひ思ひの働きあり」と形容しています。激闘により、織田・徳川は敵方を追い崩します。『信長公記』にはその後に誰が誰の首を討ち取ったかということが簡略に記述されています。織田方は敵方の主だった者千百余人を討ち取ったと言いますから、戦いは織田・徳川方の勝利に終わったのでした。

 しかし、戦国時代の公家・山科言継の日記『言継卿記』には織田・徳川方にも多くの戦死者が出たとも書かれていますので、大勝とまでは言えない戦いだったと思われます。姉川の戦いの直後、織田軍は勢いに乗り、浅井氏の居城(小谷城)の麓まで迫りますが、同城は「高山節所」にあったためすぐに落とすこと叶わず。信長は一旦退いて、敵方の横山城(滋賀県長浜市)を攻略し、そこに木下藤吉郎(秀吉)を城番として入れるのでした(『信長公記』)。

 信長は横山城を小谷城攻めの拠点とし、そこに秀吉を城将(城を守る大将)として置いたのです。秀吉は重要な役割を与えられたと言えるでしょう。姉川の戦い後も信長と浅井・朝倉の戦いは続くことになります。

【参考文献】
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  この記事を書いた人
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。 武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。兵庫県立大 ...

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