家康が見た姉川の合戦。『徳川実紀』の描く家康がもはや無双状態!

  • 2026/04/17
姉川の戦いを題材にした『絵本姉川大戦記』より。(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
姉川の戦いを題材にした『絵本姉川大戦記』より。(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
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 時は元亀元年(1570)4月、織田信長は金ヶ崎の合戦で浅井長政に裏切られ、命からがら京都へ逃げ帰りました。

 「おのれ浅井め、この怨み晴らさでおくべきか……」

 かくなる上は朝倉よりも先に浅井を滅ぼしてくれようと、信長はすかさず兵を興しました。これがいわゆる姉川の合戦。盟友たる徳川家康も兵を出すよう求められ、渋々?参陣することになります。

 という訳で、今回は家康から見た姉川の合戦はどういうものだったか、江戸幕府の歴史書『徳川実紀』をひもといてみましょう。

いざ姉川へ

……信長は浅井父子が朝倉に一味せしを憤る事深かりしかば。さらば先浅井を攻亡ぼして後朝倉を誅すべしとて。また御加勢をこわれしかば。この度も又御みづから三千余兵をしたがへて御出陣あり。五月廿一日近江の横山の城へはをさえを残し小谷の城下を放火す。浅井方にも越前の加勢をこへば。朝倉孫三郎景紀を将として一万五千余騎着陣し。六月廿八日姉川にて戦あり……
『東照宮御実紀』巻二 永禄十二年-元亀元年「姉川戦(大戦之一)」

 信長からの要請を受けて、家康は三千の軍勢を率いて出陣しました。織田・徳川連合軍は5月21日に浅井の本拠地である小谷城へ迫り、その城下を焼き払います。

 長政は朝倉義景に援軍を要請、これに応じて朝倉景紀(かげのり)が一万五千の兵を率いて駆けつけました。(※景紀というのは『徳川実紀』の誤りで、朝倉方の総大将は朝倉景健(かげたけ)が務めています)

 かくして6月28日に織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が姉川の地(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で対峙したのです。

※参考:姉川の戦いの場所(『戦略的に観た織豊戦史』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
※参考:姉川の戦いの場所(『戦略的に観た織豊戦史』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

信長の陣替え要求に、家康はどうする?

……はじめ信長は朝倉にむかへば 君には浅井とたゝかひ給へとありしが。暁にいたり信長越前勢の大軍なるをみて俄に軍令を改め。我は浅井をうつべし。徳川殿には越前勢へむかひたまへと申進(知)らせらる。御家人等是をきゝ。只今にいたり御陣替然るべからずといなむ者多かりしかど。君はたゞ織田殿の命のまゝに。大軍のかたにむかわんこそ。勇士の本意なれと御返答ましまし。俄に陣列をあらため越前勢にむかひたまふ……
『東照宮御実紀』巻二 永禄十二年-元亀元年「姉川戦(大戦之一)」

 信長ははじめ、自軍が朝倉に対し、徳川勢には浅井を当たらせようとしていました。しかしいざ朝倉の大軍を目の当たりにすると、慌てて家康に陣替つまり配置替えを要請します。つまり朝倉の大軍にいきなり当たる自信がなく、家康に丸投げしようとしたのでした。

「織田殿は我らを捨て駒にするつもりか!」

 徳川家臣団が憤るのも無理はありません。徳川勢は織田よりも更に少ない三千ですから、朝倉勢の実に五分の一に過ぎないのです。

 そもそも徳川には何の関係もない戦なのに、なぜ敵の大軍を押しつけられねばならないのでしょうか。こんな扱いなら、いっそ戦線放棄してくれようか……家臣たちの憤りをよそに、家康は陣替えを承諾しました。

「織田殿は我らの武勇を見込めばこそ、あえて大軍をあてがわれたのだ。ここはご期待に応えてこそ武士の本意であろう」

とのことで、家臣たちは不承不承ながら陣替えし、朝倉の大軍と対峙したのです。

五倍の敵軍を見事に撃破!

……かくて越前の一万五千余騎 君の御勢にうつてかゝれば。浅井が手のもの八千余騎織田の手にぞむかひける。御味方の先鋒酒井忠次をはじめえい聲あげてかゝりければ。朝倉勢も力をつくしけれどもつゐにかなはず。北国に名をしられたる真柄十郎左衛門など究竟の勇士等あまたうたれたり……
『東照宮御実紀』巻二 永禄十二年-元亀元年「姉川戦(大戦之一)」

 こうして陣替えした徳川勢三千に向かって、朝倉勢一万五千が襲いかかってきました。

 対して浅井勢は八千ばかり、こちらは織田勢目がけて攻めかかります。

 さぁ、徳川勢の先鋒を務めるのは酒井忠次(さかい ただつぐ)。ほか三河武士の精鋭たちが、エイエイと声あげながら朝倉勢に斬りかかると、形勢は次第に徳川有利に転じました。

 五倍の兵力差を誇りながら、なぜ朝倉勢は押されてしまったのでしょうか。将兵の個人的な武力だけでなく、朝倉勢は「勝ったも同然」と慢心し、生きたいと願ってしまったからかも知れません。一方の徳川勢は死に物狂い、これが五倍の兵力差を覆したものと考えられます。

 かくして朝倉勢は豪傑・真柄直隆(まがら なおたか)ら多くの勇士を失い、敗退したのでした。

一方、窮地に陥る織田勢

……浅井方は磯野丹波守秀昌先手として織田先陣十一段まで切崩す。長政も馬廻をはげましてかゝりければ。信長の手のものもいよゝゝさはぎ乱て旗本もいろめきだちぬ。君はるかにこの機を御覧ありて。織田殿の旗色みだれて見ゆるなり。旗本より備を崩してかゝれと下知したまへば。本多平八郎忠勝をはじめ。ものもいはず馬上に鎗を引提て浅井が大軍の中へおめいてかゝる……
『東照宮御実紀』巻二 永禄十二年-元亀元年「姉川戦(大戦之一)」

 獅子奮迅の大暴れで五倍の敵軍を蹴散らした徳川勢。さて織田殿はどうかと目をやれば、浅井の猛将・磯野秀昌(いその ひでまさ。丹波守)に斬り込まれていました。

 十三段に構えた織田勢は十一段まで崩されてしまっています。これが後世に伝わる磯野丹波の「姉川十一段崩し」。必殺技みたいでカッコいいですね。

 しかし当の信長に敵を褒める余裕などありません。もう旗を乱して右往左往の有り様でした。

「やれやれ少数相手に仕方ないな……」

 家康は信長を救援すべく下知を飛ばすと、今度は本多忠勝(ほんだ ただかつ)らが槍を引っさげて突撃します。後世に徳川四天王(酒井忠次・榊原康政・井伊直政・本多忠勝)に数えられた武者ぶりは、さぞ勇壮だったことでしょう。

かくて味方は大勝利

……ほこりたる浅井勢も 徳川勢に横をうたれふせぎ兼てしどろになる。織田方是にいろを直してかへしあわせければ。浅井勢もともに敗走してけるも。またく徳川殿の武威によるところなりとて。今日大功不可勝言也。先代無比倫。後世雖争雄。可謂当家綱紀。武門棟梁也との感書にそへて。長光の刀その外さまゞゝの重器を進らせらる。(これを姉川の戦とて御一代大戦の一なり。)……
『東照宮御実紀』巻二 永禄十二年-元亀元年「姉川戦(大戦之一)」

 少数ながら精鋭の徳川勢に横っ腹を突かれ、流石の浅井勢も態勢を崩してしどろもどろ。そこへ織田勢も軍を建て直し、反撃に転じました。やがて浅井・朝倉連合軍は潰走し、ここに信長らは金ヶ崎の雪辱を果たしたのです。

「こたびの勝利は、まこと徳川殿のお陰じゃ」

 ……信長は家康の武功を激賞し、長光の太刀やさまざまの財宝を進呈したのでした。

おわりに

 今回は戦国史上でも著名な姉川の合戦について、徳川史観から紹介しました。

 絵に描いたような家康アゲ&信長サゲでしたが、多分に脚色されているのは言うまでもありません。しかしここまで振り切っていると、徳川ラブの潔さが心地よいくらいですね。

 果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、松下洸平演じるタヌキ家康がどんな立ち回りを演じてくれるのか、今から楽しみにしています。

【参考文献】
※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
鎌倉の最果てに棲む、歴史好きのフリーライター。時代の片隅に息づく人々の営みに強く興味があります。 得意ジャンル:日本史・不動産・民俗学・自動車など。 執筆依頼はお気軽にどうぞ!

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