【豊臣兄弟!】織田信長はなぜ比叡山延暦寺を焼き討ちにしたのか?

  • 2026/04/27
:歴史学者・作家・評論家
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 大河ドラマ「豊臣兄弟」第16回は「覚悟の比叡山」。

 元亀元年(1570)6月、織田信長は姉川の戦いで、浅井・朝倉氏の連合軍に勝利します。しかし信長の敵は浅井・朝倉だけではありません。同年7月には三好三人衆が阿波国から出兵し、摂津に進軍。一説によるとその数は約7・8千。このため信長は彼らが籠城した野田と福島(大阪市)の砦を攻めるべく都から出陣します。それは数万の大軍でした。信長は三好方に調略を仕掛け、三好為三と香西氏は三好方を裏切ります。信長方は大軍ということもあり、三好方を撃滅するのも時間の問題と思われました。

 しかしこの時、浅井氏の勧誘などもあり、大坂の本願寺が信長に対し挙兵するのです。9月に挙兵した本願寺は織田軍と交戦。それを見て浅井・朝倉も兵3万を動かし、南近江に進軍、大津に放火したり、醍醐・山科を焼いたりしたのです。都が敵方の手に落ちる危険性もありました。また信長の軍勢は浅井・朝倉と三好三人衆の軍勢に挟撃される恐れもあったのです。そのため信長は9月23日に都に戻ります。そしてその翌日には朝倉勢の攻撃に向かうのでした。

 浅井・朝倉の軍勢は信長軍と戦わず、逃げ込んだのが比叡山(延暦寺)です。この時、信長は延暦寺の僧侶10人ほどを呼び付け、我が方に味方すること、もしくは中立の立場をとることを要請します。その上でそれに従わぬのならば、延暦寺の本堂などを悉く焼き払うことを伝えたのでした。が、延暦寺は信長の要請に応じることはありませんでした。

 この時、延暦寺が信長の要求に応えていたならば、翌年(1571)9月12日の比叡山焼き討ちの悲劇は起きなかったと思われます。信長は延暦寺の僧侶らが浅井・朝倉に加担して、勝手な振る舞いに及んだことに怒りを募らせていたのでした。そしてその鬱憤を晴らすため信長は延暦寺を焼き討ちにしたのです(『信長公記』)。もちろん、信長は無関係の「美女・小童」まで悉く虐殺しており、その事は許されることではありません。

【参考文献】
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  この記事を書いた人
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。 武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。兵庫県立大 ...

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