【豊臣兄弟!】15代将軍・足利義昭はどのようにして信長に追放されたのか?
- 2026/05/05
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大河ドラマ「豊臣兄弟!」第17回は「小谷落城」。
元亀3年(1572)10月、武田信玄が大軍を率いて遠江・三河国に侵攻します。信玄の侵攻はかつては上洛のため(将軍・足利義昭の上意によるもの)と言われていましたが、近年では越前の朝倉氏や本願寺の要請によるもので、上洛するためではなかったとの見解も出されています。
信玄の出兵は信長にとって思いがけぬものでした。というのも、将軍・義昭と信長の仲介・奔走により、信玄と越後の上杉謙信の和議が結ばれたのに、出陣するとは「前代未聞の無道」と信長は憤ったのです。同年12月22日、武田軍は三方ヶ原(現在の静岡県浜松市)において、信長の同盟者・徳川家康と刃を交えます。信長は家康に援軍を送りますが、家康軍は武田軍に敗北を喫します。信長は本願寺や浅井・朝倉氏という敵だけでなく、東方に武田信玄という強敵が登場したことにより、窮地に立たされるのでした。
反信長陣営が団結し、猛攻を加れば信長を滅亡させる絶好の機会だったはずです。が、同年12月、越前の朝倉義景が北近江から撤退してしまったことはその好機を逃すことになると信玄は考えていました。信玄は義景にその事を慨嘆する書状を送っています(12月28日)。
明けて元亀4年(1573)。2月には信長と不和になっていた将軍・足利義昭が挙兵します。信玄は義昭側に「信長・家康以下の凶徒を誅戮(罪ある者を殺すこと)せよとの御下知を賜りたい」と要請していましたが、義昭は反信長陣営が優勢と見て(あるいは義兵を起こしたという信玄の熱意に突き動かされて)、ついに挙兵に踏み切ったのでした。信長は義昭と和睦しようとしますが、義昭は聞く耳を持ちませんでした。
4月上旬、信長は洛外や上京に放火し、義昭の御所を包囲します。朝廷が和睦の仲介をしたこともあり、両者(義昭と信長)は和睦しました。一方、武田軍は三河国にも侵攻し優勢でしたが、信玄の病状が悪化したため撤退を開始。稀代の名将・武田信玄は4月に53歳の生涯を閉じます。さて将軍・義昭は同年7月には再び挙兵し、宇治の槙島城に立て籠りますが、信長軍に攻められあっけなく降伏しました。義昭は助命され、河内国若江城まで護送されますが、その警固を担ったのは羽柴秀吉だったとされます(『信長公記』)。こうして都から再び足利将軍が消えたのでした。
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