朝倉義景の息子たち──毒殺、刺殺、生存伝説という三つの運命

  • 2026/05/08
義景を描いた浮世絵(『太平記英勇伝』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
義景を描いた浮世絵(『太平記英勇伝』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
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 越前の戦国大名として名を馳せた朝倉義景。上洛の機を逸したことで織田信長に圧倒され、ついには滅亡にいたった悲劇の英雄と言えるでしょう。

 今回はそんな朝倉義景の息子たちを紹介したいと思います。

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義景の長男・阿君丸

【生没:永禄5年(1562)生~永禄11年(1568)6月25日没(享年7)】

 生母は小宰相(こざいしょう。鞍谷嗣知女)、名前は「くまぎみまる」と読み、早くから世継ぎとして大切にされました。

 『朝倉始末記』によると、永禄11年(1568)5月17日に足利義昭が義景の館を訪ねた際、阿君丸も義昭に太刀と駿馬を献上しています。

……義景ノ子息阿君殿(くまぎみどの)モ亦(また)御太刀一腰(ひとこし)助定(すけさだ)御馬一疋鴾毛(つきげ)指上ラル……
※『朝倉始末記』巻第四「義昭公被為成于朝倉屋形次第附御能事」より

【意訳】
義景の息子・阿君丸も、義昭に助定の太刀一腰と月毛の駿馬一頭を献上された。


 しかしそれから間もない同年6月25日に急死してしまいました。『朝倉始末記』によると、毒殺された疑いがあるようです。

……六月廿五日屋形ノ一子阿君殿ノ御乳ノ人忽(たちまち)頓死(とんし)シケルカ毒害ノ由ヲソ人々申合ケル其乳味ヲ呑給ル故カ同日ノ暮程ヨリ阿君殿頻(しきり)ニ病脳シ給ケル間(かん)谷中(一乗谷じゅう)妙功奇誉(みょうごうきよ)ノ名医秘術ヲ尽テ配剤心底(しんてい)ヲ振ヒ霊験智能ノ高僧肝胆ヲ砕テ新念身ノ毛ヲヨタチケレトモ仏神ノ恵モ更ニ夏ノ日ノ光程ナク暮果テ浅茅生(あさぢふ)ノ末葉(すえば)ノ露ト諸(な)ルニ遂ニ空(むなし)ク消給ケレハ……
※『朝倉始末記』巻第四「義景嫡子逝去付義昭公移美濃事」より

【意訳】
その日、阿君丸の乳母が急死した。毒殺されたのだろうと人々が噂している。毒殺された乳母と同じもの(※)を飲んだ阿君丸もまたしきりに苦しみ始めた。そのため義景は一乗谷じゅうの名医や祈祷師を集めて治療に当たらせたが、努力も甲斐なく亡くなってしまった。
 (※)ストレートに訳せば「毒殺された乳母の乳を飲んだ」とすべきですが、7歳(満6歳)では授乳期を過ぎているため、ここでは「乳母と同じものを飲んだ」と解釈しています。


 最愛の阿君丸を喪った義景は悲歎のあまり、政務も手につかなくなってしまいました。すっかり覇気をなくしてしまった義景に愛想を尽かしたのか、義昭は7月13日に一乗谷を立ち去り、織田信長のもとへ身を寄せたということです。

 もし阿君丸が生きていれば、義景が足利義昭を奉じて上洛を目指し、歴史が変わっていたかも知れませんね。

義景の次男・愛王丸

【生没:元亀元年(1570)生~天正元年(1573)8月26日没(享年4)】

 生母は側室の小少将(こしょうしょう。斎藤兵部女)、名前の「あいおうまる」は軍神として信仰された愛染明王(あいぜんみょうおう)や愛宕権現(あたごごんげん)を連想させます。

……角テ(かくて)年月ヲ経シカハ若君ヲ誕生アリ是ヲ愛王丸殿トソ申ケル……
※『朝倉始末記』巻第五「義景北方(きたのかた)之事」より

 阿君丸を喪って失意に沈んでいた義景は愛王丸の誕生に驚喜し、たいそう溺愛しました。しかし天正元年(1573)8月に越前一乗谷へ織田信長が攻め込んでくると、義景は愛王丸を手にかけようとします。

……愛王丸殿トテ今年四歳ニ成給フ最愛ノ一子ヲ呼ヒ出シ給ヒテ御膝ノ上ニ置レ汝(なんじ)未幼稚ナレハ我ニ死ヲクレテ敵ニ生捕レ憂目ヲ見セン事モ可被心憂(心憂われるべし)若亦(もしまた)我為敵討死シテ汝ヨリ先ニ立タハ生前ノ思ヒ難忍(しのびがたし)然者(しからば)汝ヲ先キ立テ心安思置キ明日ノ軍ニ討死シテ黄泉ノ苔ノ下三途ノ河ノ底マテモ父子ノ恩愛ヲ捨テシト思フトテ左ノ袖ニ涙ヲ拭ヒ右ノ手ニ刀ヲ提テ子息ノ害ヲ進メ給フ時……
※『朝倉始末記』巻第六「義景帰陣并(ならびに)開谷給事(谷を開きたもうこと)」より

【意訳】
義景は今年4歳になる愛王丸を呼び出し、膝の上に座らせ、語りかけた。曰く「そなたは幼きゆえ、死に損ねて敵に辱めを受けるようなことがあってはならない。かと言って、そなたが敵の手にかかって死ぬのを見届けるのは忍びがたい。そこで心残りとならぬよう、そなたを我が手にかけて父子の絆をまっとうしようと思う」ということで、左の袖で涙をぬぐい、右手に刀を以て愛王丸を殺そうとした。


 ……のですが、家臣らに「諦めるのはまだ早うございます」と説得され、再起を期して一乗谷を脱出。一族の朝倉景鏡が統治する大野郡へ逃げ込んだのです。

 しかしこれは景鏡の謀略で、大野郡へ逃げ込んだ義景一家は景鏡の軍勢に完全包囲され、義景は自刃して果てました。

……何ク(いずく)ヲ頼ミノ有(ある)世トモナク明リ夜心ノ迷ヒノミ思テ露ノ命ノ惰(はかな/ものう)ク侍ヘル(はべる)モノ愛王カセメテ十歳ニモ成ヲ見ンカタメナルニ今更此体(かくてい)ニ成事ノ口惜サヨト宣(のたま)ヒテ御涙ヲ流シ給ヒケリ……
※『朝倉始末記』巻第六「義景帰陣并開谷給事」より

【意訳】
何の頼みもない世の中で、はかない命を永らえようと思ったのは、せめて愛王丸が10歳になるのを見届けたかったが、こんな有り様になってしまったことが悔しくてならない。そう言って、義景は涙を流した。


 阿君丸に先立たれ、今また愛王丸と今生の別れ……さぞ無念であったことでしょう。かくして父と死別した愛王丸は、一族そろって岐阜へ護送される道中、織田の部将・丹羽長秀によって刺し殺されたということです。

……廿六日丹羽五郎左衛門尉長秀警固トシテ今庄ノ近辺帰ルノ里ノ堂ニテ高徳院殿御台所御曹司諸トモニ刺殺シ即其堂ニ火ヲ懸ケリ……
※『朝倉始末記』巻第六「義景母公御曹司被刺殺事(さしころさるること)」より

義景の末子?朝倉信景

【生没:元亀2年(1571)生~承応元年(1652年)11月19日没(享年82)】

 生母は不明。朝倉滅亡時に落ち延び、生き永らえたといいます。後に出家して慶専(けいせん/ぎょうせん)と号し、本願寺教如(きょうにょ)の弟子となりました。

 寛永5年(1628)には江戸桜田門外に遍立寺(へんりゅうじ/朝倉山一乗院)を創建し、その住職になったそうです。

 ちなみに信景の名は朝倉家の系図になく、義景との関係も実は定かではありません。果たして真相はどうだったのか、今後の究明がまたれます。

おわりに

 今回は朝倉義景の息子たちについて紹介しました。

 最後の朝倉信景はちょっと怪しいですが、義景の溺愛ぶりを振り返ると、息子の一人くらいは生きていてほしい≒本当に義景の息子だったらいいなと思います。

 大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、義景の息子たちは割愛されましたが、皆さんは思いを馳せてみてほしいです。

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【参考文献】
  • 水藤真『人物叢書 朝倉義景』(吉川弘文館 1981年)
  • 松原信之『朝倉義景のすべて』(新人物往来社 2003年)
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  この記事を書いた人
鎌倉の最果てに棲む、歴史好きのフリーライター。時代の片隅に息づく人々の営みに強く興味があります。 得意ジャンル:日本史・不動産・民俗学・自動車など。 執筆依頼はお気軽にどうぞ!

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