【豊臣兄弟!】羽柴秀吉はなぜ焦るようにして但馬国に侵攻したのか?
- 2026/06/01
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大河ドラマ「豊臣兄弟!」第21回は「風雲!竹田城」。
天正5年(1577)10月、羽柴秀吉は主君・織田信長から中国地方の攻略を命じられて、播磨国(兵庫県南西部)に出陣します。秀吉は小寺孝高(黒田官兵衛。御着の小寺政職の家老)から居城・姫路城を提供され、同城を拠点として活動していくことになります。秀吉が播磨において先ずやったことは、播磨国衆(龍野の赤松広英、三木の別所長治ほか)から人質を差し出させ、信長への忠節を誓わせることでした。
『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が著した信長の一代記)によると、秀吉は10月23日に播磨に出陣。その後、夜を日に継いで(播磨国を)駆け廻り、国衆から人質を取ることに奔走したとあります。そして来月の10日頃には、播磨平定が為るであろうと信長に注進するのでした。信長は秀吉の報告を「神妙」(感心)として喜び、お褒めの御朱印状を秀吉に下したのです。普通の者ならこれで満足と安心するところですが、秀吉は違いました。「播磨での働きはさしたるものではない」として、新たに但馬国(兵庫県北部)に侵攻するのです(『信長公記』)。
秀吉が焦るようにして但馬に出兵したのには、同年の秀吉のある失態が関係しているともされます。同年8月、信長は柴田勝家を総大将にして北国は加賀に出兵させますが、それには秀吉も加わっていました。ところが秀吉は加賀の陣中から信長の許しを得ることもなく、勝手に兵を退いてしまうのです(その裏には、勝家と秀吉の仲違いがあったとされます)。勝手な行動に当然、信長は「曲事」と激怒しています(『信長公記』)。
同書には秀吉が信長から何らかの処罰を受けたということは書かれていません。秀吉は播磨に出兵する前に信長に謀反した松永久秀討伐のために大和国に出兵していますので、大きな罰を受けたようには思われません。厳重注意くらいで済んだのではないでしょうか。しかし、秀吉は信長の評価を気にしており、それで但馬への侵攻を実行に移したのでしょう。

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