清正は朝鮮出兵で石田三成と対立したことが原因で秀吉から蟄居を命じられたが、これはその蟄居中に伏見大地震(1596年)が勃発したときの話である。
── 慶長元年(1596年)【京都伏見】
京都で大地震が勃発すると、秀吉のいる伏見城は倒壊し、圧死者が数百にも及んだ。清正はただちに兵卒二百ほどを従えて伏見城まで馳せ参じた・・・。
殿下ーーーーー!!
清正が駆けつけると、秀吉は夫人と地べたに席を設けて座っていた。
おお、お虎(=おとら。清正の幼名)!そちは実に早くやってきたな。
ご無事でしたか!!
清正は秀吉と対面すると、地図を使って朝鮮出兵時の自分の冤罪を訴え、自身の働きぶりを語った。
そうであったか・・・。
もとは肥って色白だったお主が、朝鮮から戻ってきた今をみると、ずいぶんと黒くなってやつれてしまったのう。。
そう言って秀吉は清正に警護にあたらせた。
しばらくすると、石田三成以下の者が馳せ参じたが、夜遅かったために入城はかなわなかった。
石田様ほか、門の前に多くの者が来ておるようですが・・?
なにぃ?・・・。わかった。
そして、三成がきたことを知った清正は門番に向かって・・・・
おい!!そこの佞臣(主君にこびへつらう家来の意)の小僧っ子を入れてやれ!!!
!!!? ははーーーー!
ふんっ!蟄居中でありながら・・。清正のやつめ。
こうして清正は三成だけを特別に城内に入れたのであった。
そして翌日・・・。秀吉は清正に朝鮮での戦況などを質問しながら、涙を流していった。
阿虎よ。そちはおむつのころからわしの側で育った。だからこうしてわしに仕えておるのだ。
こうして清正は朝鮮での罪を許されたという。
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