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「北条氏直」実権は父氏政にあったという北条氏最後の当主。最終的に秀吉の旗本家臣に?

  • 北条五代
 2019/01/26
北条氏直の肖像画

戦国時代に関東に覇を唱えた北条氏でしたが、豊臣秀吉の小田原攻めによって滅ぼされ、天下は統一されます。その最後の北条氏当主だったのが「北条氏直」です。

氏直はいかにして秀吉と戦い、そしてなぜ生き残って大坂城に出仕するようになったのでしょうか?今回は氏直が秀吉の旗本家臣となるまでの経緯についてお伝えしていきます。
(文=ろひもと理穂)

徳川氏との姻戚関係

元服し、家康の娘を正室に迎える

氏直は永禄5年(1562年)、北条氏政と黄梅院殿との間に生れました。氏政は北条氏康の子ですし、黄梅院殿は武田信玄の娘ですから、まさに英雄の血を受け継いだサラブレッドです。氏政には弘治元年(1555年)に生れた長子がいたようですが、早世したようで氏直は生れたときには嫡子としての扱いだったようです。

ただし、永禄12年(1569年)ごろに今川氏真の養子となって今川氏の当主を継いでいます。駿河国の支配を巧みに進めていく予定だったのかもしれませんが、結局のところ元亀2年(1571年)に北条氏は武田氏との同盟を復活し、今川氏当主としての価値が下がったことで、氏直は元服して新九郎を称し、天正8年(1580年)には北条氏の家督を継いでいます。

氏直は御屋形様と呼ばれていましたが、実権は御隠居様と呼ばれている氏政が握っていました。氏政は織田信長と姻戚関係を結ぶために家督を早く譲ったのですが、信長は本能寺の変で亡くなったため、氏直は天正11年(1583年)に徳川家康の娘である督姫を正室に迎えています。これより北条氏と徳川氏は姻戚関係となったわけです。

佐竹氏との攻防

天正10年(1582年)以降、軍事の中心を担ったのは氏直で、上野国や下野国の支配を巡って常陸国の佐竹氏と争っています。天正11年(1583年)、厩橋の北条高広を攻略した氏直でしたが、金山城の由良氏や館林城の長尾氏の誤解を受けて離反されてしまいます。氏直は金山城や館林城を攻めますが、そこに援軍を送り北条氏に敵対したのが佐竹氏です。

天正12年(1584年)には氏直は、同様に北条氏に敵対した下野国の佐野氏を攻めますが、やはり佐竹義重は援軍を出陣させ、両陣営は渡良瀬川を挟んで3ヶ月も対峙しました。背景には秀吉と家康の勢力争いがあり、同時期に両者は小牧・長久手の合戦でぶつかっています。家康への援軍を派遣させないように秀吉は佐竹氏と通じ、北条氏を牽制したのです。さらに越後国の上杉氏にも要請し、越山させて上野国に侵攻させたため、北条氏は佐竹氏と和睦し兵を退いています。

秀吉との駆け引き

関東奥両国惣無事令に対する北条氏の回答

秀吉と家康が対立している間、氏直は下野国の壬生氏を従属させ、宇都宮氏の本拠地を攻めて宇都宮城を攻略しています。そして同じく佐竹氏と対立している陸奥国の伊達政宗と手を結ぶのです。政宗は佐竹氏と結んでいる芦名氏を攻めています。

天正13年(1585年)には氏直は家康と共同して上野国の真田氏を攻めましたが、信濃国の上田城で徳川勢が敗北。そのため北条氏も撤退しました。天正14年(1586年)4月には二度に渡り、氏政と家康が会見を行い、互いに絆を深めています。しかし秀吉は5月に家康の正室に妹の朝日姫を嫁し、家康の上洛を促します。10月には家康も折れて上洛し、大坂城で秀吉への従属を明らかにしました。ここで秀吉は家康を関東の取り次ぎ役に命じ、関東奥両国惣無事令を発しています。北条氏側はこの通達に対し明確な回答をしていません。対立すべきか、従属すべきかを悩んでいたのです。

氏規の上洛と秀吉の北条氏追討の陣触

秀吉に対して明確な回答を避けつつ、北条氏側は領地の城の普請を急ピッチで行っています。それは氏政、氏直親子のいる小田原城だけではなく、ほとんどの城が対象でした。歴史を紐解くと、北条氏は上杉謙信や武田信玄といった最強クラスの戦国大名に侵攻されながらも籠城戦を徹底することで追い払っているのです。その実績があればこそ、秀吉ごときに負けはしないという思いがあったのではないでしょうか。

しかし天正15年(1587年)になると秀吉は九州もあっという間に制圧してしまいます。かつてないほどの大勢力となっていたのです。秀吉の天下統一を阻む勢力はもはや関東の北条氏しか残されていませんでした。秀吉の小田原攻めの風聞は広まる一方でしたが、それを回避しようと家康が北条氏に起請文を送ります。氏政の兄弟をまず上洛させ、秀吉に逆らう意志のないことを示すよう促すものでした。

ここで北条氏規が上洛し、秀吉に従属の意志を明らかにしたことで北条氏は赦免されるのですが、秀吉はさらに氏直の上洛を要望します。氏直は沼田領を北条氏に返還することを条件に出し、その大部分を真田氏から奪い取ることに成功したのですが、沼田城城主の猪俣邦憲が利根川対岸の名胡桃城を攻略する事件が起こります。ただでさえ氏直の上洛を引き延ばしており、さらにこの事件によって国替えの危険性も出てきたために氏直は上洛の条件をさらに追加。これが秀吉の怒りを買って、天正17年(1589年)12月、北条氏追討の陣触れが全国の大名に発せられたのです。

小田原城開城と氏直の追放

氏政は切腹、氏直は高野山追放

天下の大部分を支配下においた秀吉の戦力は、とうてい北条氏の敵うものではなく。また秀吉は後背に敵を抱えているわけでも、兵站に問題があるわけでもないので、上杉勢や武田勢との籠城戦とはまったく状況が異なりました。支城は瞬く間に攻略されていき、小田原城も完全包囲されます。

天正18年(1590年)6月、滝川雄利と黒田孝高が秀吉側の使者として小田原城に入り交渉を行い、7月に氏直は開城を決意します。そして弟の北条氏房共に降伏のために城を出て、雄利の陣所に移り、そこから秀吉に直接対面し、自らの切腹と引き換えに小田原城の将兵の助命を願い出ています。秀吉はこの氏直の姿勢に、神妙と感嘆しますが、責任をとらせるために氏政、氏照、そして重臣の松田憲秀、大道寺政繁の切腹を命じました。氏直は北条氏当主であり最も責任をとらねばならない立場でしたが、家康の娘婿という関係もあり、秀吉は高野山追放の処分のみとしています。

赦免され大坂城へ出仕

関東に覇を唱えた北条氏はここに滅亡し、氏直は300人の従者と共に高野山へ移りました。しかし冬の寒さは厳しいということで、秀吉は山麓に降りて過ごすことを許可しています。このように氏直に対して秀吉はあまり厳しい対応をしていません。やはり家康に気をつかってのことでしょう。天正19年(1591年)2月には家康の取り成しを受け入れ、秀吉は氏直を赦免することを告げています。しかも1万石の知行を与えることも約束しているのです。もしかしたらこのあたりの取り決めは小田原攻めの最中から秀吉と家康の間にあったのかもしれません。

8月には氏直は大坂城に出仕し、秀吉の旗本家臣として再出発することになりました。はたして氏直の本心はどのようなものだったのでしょうか。舅の家康への感謝の気持ちはあったに違いありません。氏直は翌年に控えた朝鮮への出兵にも参加する予定でしたが、10月に病を患い、11月に死去してしまいます。秀吉に直接仕えた期間は本当にわずかなものだったということです。

まとめ

下克上の先駆け的な存在であった北条早雲を祖とする後北条氏は、戦国時代に終止符を打つ秀吉の小田原攻めによって氏直の代で滅びました。その中で氏直の活躍する場面は少ないながら、佐竹氏と互角以上に戦い、秀吉や家康に器量を認められていたことから、時勢が時勢であれば大きな活躍をしていたのではないでしょうか。


【参考文献】
  • 黒田基樹『図説 戦国北条氏と合戦』(戎光祥出版、2018年)
  • 黒田基樹『 中世武士選書 戦国北条氏五代』(戎光祥出版、2012年)


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