「北条氏直」実権は父氏政にあったという北条氏最後の当主。最終的に秀吉の旗本家臣に?
- 2020/03/24
戦国時代に関東に覇を唱えた北条氏でしたが、豊臣秀吉の小田原攻めによって滅ぼされ、天下は統一されます。その最後の北条氏当主だったのが「北条氏直(ほうじょう うじなお)」です。
氏直はいかにして秀吉と戦い、そしてなぜ生き残って大坂城に出仕するようになったのでしょうか?今回は氏直が秀吉の旗本家臣となるまでの経緯についてお伝えしていきます。
氏直はいかにして秀吉と戦い、そしてなぜ生き残って大坂城に出仕するようになったのでしょうか?今回は氏直が秀吉の旗本家臣となるまでの経緯についてお伝えしていきます。
家康の娘を正室に迎える
氏直は永禄5年(1562)、北条氏政と黄梅院殿との間に生まれました。父氏政は北条氏康の子ですし、母は武田信玄の娘ですから、まさに英雄の血を受け継いだサラブレッドです。氏政には長子がいたようですが、早世したため、氏直は生れたときには嫡子としての扱いだったようです。ただし、永禄12年(1569)ごろに今川氏真の養子となって今川氏の当主を継いでいます。
信玄の手に渡っていた駿河国の支配を巧みに進めていく予定だったのかもしれません。しかし結局のところ、北条は元亀2年(1571)に敵対していた武田信玄との同盟を復活したためか、氏直は元服して新九郎を称し、天正8年(1580)には北条氏の家督を継いでいます。
氏直は御屋形様と呼ばれていましたが、実権は御隠居様と呼ばれている父氏政が握っていました。
氏政は織田信長と姻戚関係を結ぶために家督を早く譲ったのですが、信長が天正10年(1582)6月に本能寺の変で亡くなったため、これはかないませんでした。
その直後、旧武田領をめぐり、北条・上杉・徳川らが総力戦で臨んだ「天正壬午の乱」が勃発しますが、このとき氏直も従軍しています。戦いは長期にわたりましたが同年の10月、最終的に北条と徳川が和睦することで終結しました。
このときの和睦条件で氏直は翌年に徳川家康の娘である督姫を正室に迎えています。これより北条氏と徳川氏は姻戚関係となったわけです。
佐竹氏との攻防
天正10年(1582)以降、軍事の中心を担ったのは氏直で、上野国や下野国の支配を巡って常陸国の佐竹氏と争っています。天正11年(1583)、氏直は督姫との婚姻後、厩橋城の北条高広(きたじょう たかひろ。ほうじょうとは別の氏族。)の攻略に向けて出陣し、9月にはこれを攻略します。しかし、まもなくして今度は金山城の由良氏や館林城の長尾氏が離反。このため、金山城や館林城の攻略にもかかりますが、そこに援軍を送って北条と敵対したのが佐竹氏でした。
天正12年(1584)には同様に北条と敵対した下野国の佐野氏を攻めますが、やはり佐竹義重は援軍を出陣させ、両陣営は渡良瀬川を挟んで3ヶ月も対峙しています。背景には秀吉と家康の勢力争いがありました。このころ両者は小牧・長久手の戦いで衝突しています。
つまり、秀吉は徳川方に援軍を派遣させないため、佐竹氏と通じて北条氏を牽制したということのようです。さらに秀吉は越後国の上杉氏にも援軍要請をして上野国に侵攻させたため、北条氏は佐竹氏と和睦して兵を退いています。
秀吉との駆け引き
関東奥両国惣無事令に対する北条氏の回答
秀吉と家康が対立している間、氏直は下野国の壬生氏を従属させ、宇都宮氏の本拠地を攻めて宇都宮城を攻略。そして同じく佐竹と対立している陸奥国の伊達政宗と手を結ぶのです。政宗は佐竹と結んでいる芦名氏を攻めています。天正13年(1585)に入り、上野国で北条に従属していない国衆は真田昌幸を残すのみでした。氏直は家康と示し合わせて上野国で真田が支配している沼田領を攻めますが、同時期に信濃国の上田城を攻めていた徳川軍が敗北したため、沼田攻めをあきらめて撤退しています。
天正14年(1586)4月には二度に渡り、氏政と家康が会見を行い、互いに絆を深めています。しかし5月に秀吉が家康の正室に妹の朝日姫を嫁し、家康の上洛を促すと、10月にはついに家康も折れて上洛し、大坂城で秀吉への従属を明らかにしました。
ここで秀吉は家康を関東の取り次ぎ役に命じ、関東奥両国惣無事令を発しています。惣無事令とは大名同士の私闘を禁止する法令です。秀吉はまだ制圧していない関東と奥羽を治めるべく、北条氏や伊達氏らに領土拡大のための戦いを禁止することで従属させ、天下統一を図ろうとしたのです。
北条側はこの通達に対して明確な回答をしていません。それと同時に自領の城の普請を急ピッチで行います。それは氏政、氏直親子のいる小田原城だけではなく、ほとんどの城を対象とするものでした。つまり、北条としては秀吉と対立すべきか、従属すべきかを悩んでいたのであり、敵対したとしても対処できるように備えていたのです。
氏規の上洛と秀吉の北条氏追討の陣触
歴史を紐解くと、北条氏は上杉謙信や武田信玄といった最強クラスの戦国大名に侵攻されながらも籠城戦を徹底することで追い払っています。その実績があればこそ、秀吉ごときに負けはしないという思いがあったのではないでしょうか。しかし天正15年(1587)になると秀吉は九州もあっという間に制圧してしまいます。かつてないほどの大勢力となっていたのです。
豊臣秀吉の天下統一を阻む勢力はもはや関東の北条氏しか残されていませんでした。この頃は秀吉による北条攻めの風聞は広まる一方でしたが、それを回避しようと家康が北条氏に起請文を送っています。
これは氏政の兄弟をまず上洛させ、秀吉に逆らう意志のないことを示すよう促すものでした。北条方はここでようやく氏規を上洛させて従属の意志を明らかにし、秀吉に赦免されるのです。
沼田領問題と名胡桃城事件
しかし、惣無事令が出されたにもかかわらず、関東では依然として領土争いが行われていました。特に上野国の沼田領は北条と真田による争いが長期にわたって継続していたのです。こうした領土紛争を解決すべく、秀吉は関東諸将らに上洛を要請。北条氏も氏政・氏直父子のいずれかの上洛を要請されています。
この上洛要請に対し、北条方は沼田領問題の解決を交換条件に出し、天正17年(1589)の沼田領の裁定によって、その大部分を真田氏から奪い取ることに成功しています。
しかし、この直後には北条家臣で沼田城の城主・猪俣邦憲が利根川対岸の真田方の名胡桃城を奪取する事件が起こります。これに対して氏直は「奪取したわけではない」との弁明をしますが、秀吉を激怒させます。
- 氏政が上洛後に拘留されるのではないか
- この事件で国替えされるのではないか
こうした心配から「氏政が安心して上洛できる措置をとってほしい」との要求を出します。さらには氏政の年内の上洛を要望する秀吉に反して、来年春に上洛する意思を伝えています。
こうして同年12月、北条氏追討の陣触れが全国の大名に発せられることになるのです。
小田原城開城と氏直の追放
氏政は切腹、氏直は高野山追放
天下の大部分を支配下においた秀吉の戦力は、とうてい北条氏の敵うものではなく、また秀吉は後背に敵を抱えているわけでも、兵站に問題があるわけでもないので、上杉勢や武田勢との籠城戦とはまったく状況が異なりました。天正18年(1590)、支城は瞬く間に攻略されていき、小田原城も完全包囲されます。6月には滝川雄利と黒田孝高が秀吉側の使者として小田原城に入って交渉を行い、7月に氏直は開城を決意します。そして弟の北条氏房共に降伏のために城を出て、雄利の陣所に移り、そこから秀吉に直接対面し、自らの切腹と引き換えに小田原城の将兵の助命を願い出ています。
秀吉はこの氏直の姿勢に神妙と感嘆しますが、責任をとらせるために氏政、氏照、そして重臣の松田憲秀、大道寺政繁の切腹を命じました。氏直は北条氏当主であり最も責任をとらねばならない立場でしたが、家康の娘婿という関係もあり、秀吉は高野山追放の処分のみとしています。
赦免され大坂城へ出仕
関東に覇を唱えた北条氏はここに滅亡し、氏直は300人の従者と共に高野山へ移りました。しかし冬の寒さは厳しいということで、秀吉は山麓に降りて過ごすことを許可しています。このように氏直に対して秀吉はあまり厳しい対応をしていません。やはり家康に気をつかってのことでしょう。
天正19年(1591)2月には家康の取り成しを受け入れ、秀吉は氏直を赦免することを告げています。しかも1万石の知行を与えることも約束しているのです。もしかしたらこのあたりの取り決めは小田原攻めの最中から秀吉と家康の間にあったのかもしれません。
8月には氏直は大坂城に出仕し、秀吉の旗本家臣として再出発することになりました。はたして氏直の本心はどのようなものだったのでしょうか。舅の家康への感謝の気持ちはあったに違いありません。
氏直は翌年に控えた朝鮮への出兵にも参加する予定でしたが、10月に病を患い、11月に死去してしまいます。秀吉に直接仕えた期間は本当にわずかなものだったということです。
おわりに
下克上の先駆け的な存在であった北条早雲を祖とする後北条氏は、戦国時代に終止符を打つ秀吉の小田原攻めによって氏直の代で滅びました。その中で氏直の活躍する場面は少ないながら、佐竹氏と互角以上に戦い、秀吉や家康に器量を認められていたことから、時勢が時勢であれば大きな活躍をしていたのではないでしょうか。
【参考文献】
- 黒田基樹『図説 戦国北条氏と合戦』(戎光祥出版、2018年)
- 黒田基樹『 中世武士選書 戦国北条氏五代』(戎光祥出版、2012年)
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