関ヶ原の2日前、「九州の関ヶ原」で黒田官兵衛が見せた野望と天下取り説の真相

  • 2026/08/25
:歴史学者
石垣原の戦いで官兵衛が本陣を置いたとされる「黒田如水本陣跡」(大分県別府市鶴見)
石垣原の戦いで官兵衛が本陣を置いたとされる「黒田如水本陣跡」(大分県別府市鶴見)
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 慶長5年(1600)9月15日、美濃国関ヶ原で徳川家康率いる東軍と石田三成ら西軍が激突した。わずか1日で東軍の勝利が決まった天下分け目の戦いである。だが、このとき戦乱に包まれていたのは関ヶ原だけではない。東北、北陸、四国、そして九州でも、東西両軍に属する諸将が城を攻め、領土を奪い合っていた。

 なかでも「九州の関ヶ原」の主役となったのが、豊前国中津城(大分県中津市)の黒田官兵衛である。子の長政が関ヶ原で東軍勝利のために奔走する一方、官兵衛は九州で大友吉統を破り、西軍方の諸城を次々と制圧した。しかも後世には、「官兵衛は関ヶ原合戦に乗じて天下を狙っていた」とまで語られるようになる。その有名な「天下取り説」は、どこまで事実なのだろうか。

九州は西軍だらけだった

 関ヶ原合戦の際、黒田家は早い段階から東軍に属した。長政は黒田家の主力を率いて家康に従い、関ヶ原へ向かった。一方、九州に残った官兵衛は、手薄になった中津城を守る立場にあった。

 ところが、周囲を見渡せば敵だらけだった。豊後国では府内城主の早川長政、臼杵城主の太田一吉、日隈城主の毛利高政、富来城主の垣見一直、安岐城主の熊谷直盛らが西軍方だった。豊前国でも小倉城主の毛利吉成が西軍に属している。

 さらに筑後国柳川城主の立花宗茂、肥後国宇土城主の小西行長、薩摩国の島津義弘らも西軍方である。官兵衛が連携できる有力な東軍大名は、肥後国隈本(熊本)城主の加藤清正くらいだった。

関ヶ原の戦いにおける北九州エリアの東西勢力
関ヶ原の戦いにおける北九州エリアの東西勢力

 普通ならば、中津城に籠もって守りを固めても不思議ではない。ところが官兵衛は逆の行動に出た。この危機を、むしろ領土を拡大する絶好の機会と見たのである。

家康は「切り取り自由」を認めたのか

 官兵衛は家康に、九州で軍事行動を起こすことを申し入れた。本人が家康に送った書状は残っていないが、井伊直政が長政に宛てた8月25日付書状から、その内容をうかがうことができる。

 官兵衛は軍事行動の許可だけでなく、占領した土地を自らの所領にすることも認められたという。いわば「切り取り自由」である。

 ただし、戦後の論功行賞まで、本当にこの原則どおり行われたわけではない。家康が官兵衛らを奮起させるため、魅力的な条件を示した可能性は考えておく必要がある。

 それでも、官兵衛が大規模な軍事行動を準備したことは確かである。長政が多くの家臣を連れて出陣していたため、中津城には十分な兵力が残っていなかった。そこで官兵衛は、蓄えていた金銀を使って新たな兵を募集した。

 『黒田家譜』によれば、身分の高低を問わず奉公を望む者を召し抱え、その数は3600人余りに達したという。領内の百姓にも、出陣を望む者には脇差を持つことを認め、褒美を約束した。以前から官兵衛が金銀を蓄えていたのは、こうした事態を想定していたからだとも伝わる。

 もっとも、『黒田家譜』は江戸時代に編纂された史料で、黒田家の祖先を顕彰する性格を持つ。兵数や勇ましい逸話をそのまま鵜呑みにはできない。それでも、官兵衛が短期間で軍勢を集め、戦いに備えたことは間違いない。

旧領奪還に懸けた大友吉統

 官兵衛の前に立ちはだかったのが、かつて豊後国を支配した吉統である。

 吉統は朝鮮出兵中の失態を理由に、文禄2年(1593)、豊臣秀吉から改易された。領国を失った後は毛利輝元のもとで蟄居していたが、関ヶ原合戦が始まると、大友家再興の機会が訪れた。

大友義統の武者絵(出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ)
大友義統の武者絵(出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ)

 吉統は豊臣秀頼から豊後国速見郡を与えられ、その地への入部を目指した。従来は、西軍首脳から豊後を武力で奪還し、官兵衛を討つよう命じられたと説明されてきたが、実際には秀頼から与えられた速見郡へ入ろうとしたと考えられる。

 しかし、そこには細川忠興の家臣・松井康之が守る木付(杵築)城があった。忠興は東軍に属している。吉統が速見郡に入ろうとすれば、衝突は避けられなかった。

 官兵衛は吉統が豊後へ渡る前に使者を送り、西軍に加わる不利を説いた。吉統の子・義述が東軍側にいることを理由に、家康へ忠節を尽くすよう促したのである。

 だが、吉統は拒否した。9月7日付の官兵衛宛書状で、輝元から受けた恩に報いるため、一命を捨てる覚悟だと述べている。自分はすでに老いて将来の望みはないが、子の義述を世に出したいとの思いも記した。吉統にとって豊後への帰還は、大友家の再興を懸けた最後の勝負だったのである。

関ヶ原の2日前、石垣原で決戦

 9月9日、吉統は豊後国へ入った。大友氏の旧臣である田原紹忍や宗像鎮続らが駆けつけ、『黒田家譜』などでは旧臣や郷民を合わせて5000~6000人に達したとされる。

 主家の改易後、大友氏の旧臣たちは各地に離散し、牢人生活を余儀なくされていた。吉統の帰還は、失われた主家と所領を取り戻す千載一遇の機会だったのである。

 9月10日夜、官兵衛は木付(杵築)城が攻撃されたとの知らせを受け、井上九郎右衛門や久野次左衛門らを救援に派遣した。翌11日には富来城を包囲し、12日には安岐城へ向かった。

 そして9月13日、官兵衛が派遣した黒田勢の先遣隊と松井勢が吉統軍と激突した。石垣原合戦である。戦いは激しく、吉統方では吉弘統幸や鎮続らが討ち死にした。黒田方にも損害は出たが、戦況は次第に東軍側へ傾いていった。

 勝報を受けた官兵衛は同日夜、実相寺山へ着陣した。翌14日は再び立石城を攻撃しようとしたものの、大雨のため中止する。そして15日未明、吉統と紹忍は官兵衛の重臣・母里太兵衛のもとを訪れ、助命を願って降伏した。吉統は捕らえられ、中津へ護送された。

 奇しくも吉統が降伏した同じ9月15日、美濃国関ヶ原では東軍と西軍の決戦が行われていた。九州では石垣原合戦が終わり、中央では天下分け目の決戦が始まったのである。

官兵衛は九州を一気に席巻した

 吉統の降伏は、官兵衛にとって終わりではなかった。むしろ九州制圧の始まりである。その後、安岐城や富来城を攻略し、日隈城や角牟礼城も降伏させた。豊後国内の西軍勢力は急速に官兵衛へ従っていった。

 9月28日、家康は吉統を生け捕りにした功績を賞し、豊前国小倉城主の吉成を攻撃するよう命じた。官兵衛が小倉城へ降伏を呼びかけると、すでに関ヶ原で西軍が敗れたとの情報も伝わっており、城兵は抵抗を断念した。

 一方、清正は行長の本拠である宇土城を攻撃した。宇土城は激しく抵抗したが、10月に開城する。さらに官兵衛や清正らは筑後国へ戻った宗茂を追い詰め、宗茂も10月下旬に降伏した。

 関ヶ原合戦からわずか1カ月余りで、九州の西軍主要勢力はほぼ制圧された。残る大勢力は、薩摩国の島津氏だけとなったのである。

官兵衛は本当に「天下」を狙ったのか

 ここで気になるのが、官兵衛の有名な「天下取り説」である。関ヶ原合戦に乗じて九州を制圧し、さらに中国地方へ進んで家康を倒し、天下を奪おうとしていたという話である。後世の編纂物には、九州平定後に10万の大軍を率いて家康と戦うつもりだったという逸話まで登場する。

 しかし、官兵衛が天下取りを計画していたことを直接裏付ける確かな史料はない。こうした逸話の多くは後世に成立した編纂物に基づいており、そのまま史実とは認められない。

 ただし、官兵衛が九州だけで満足していなかったことは、本人の書状から確認できる。10月4日付の吉川広家宛書状で、官兵衛は関ヶ原方面の戦いが10月まで続いていれば、中国地方へ攻め上って一戦を交えるつもりだったが、家康の勝利が早く決まり残念だったという趣旨を記している。

 つまり、官兵衛が目指していたのは、ただちに家康を倒して天下人になることではなく、戦乱が続く間に自らの勢力を可能な限り拡大することだったと考えるのが自然である。ところが家康の勝利は、官兵衛の予想以上に早かった。そのため、中国地方へ進む構想は実現しなかったのである。

 関ヶ原で長政が東軍諸将への調略に奔走し、家康の勝利に貢献する一方、父の官兵衛は九州で大胆な軍事行動を展開した。遠く離れた2つの戦場で、黒田父子はそれぞれ別の方法によって黒田家の生き残りと飛躍を懸けて戦ったのである。

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  この記事を書いた人
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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