「小谷城の戦い(1573年)」信長、年来の敵・浅井家を滅ぼす!
- 2019/08/15
小谷城の戦いは天正元年(1573)8月、織田信長と浅井長政との間で起こった最終決戦です。戦いに敗れた長政と、その父・久政は自害。長政の嫡男も処刑され、戦国大名の浅井氏は滅亡したとされています。
しかし、浅井の血は完全に絶えたのでしょうか。嫡男以外の男児・三姉妹のその後の人生にも注目してみてください。
しかし、浅井の血は完全に絶えたのでしょうか。嫡男以外の男児・三姉妹のその後の人生にも注目してみてください。
きっかけは浅井の謀反
織田信長と浅井長政との対立は、元亀元(1570)年4月の金ヶ崎の戦いに始まります。朝倉討伐のため、越前に向かった信長軍。戦いは順調に進み、これから朝倉義景を攻めるぞ! という絶妙なタイミングで、同盟者かつ義理の弟でもあった浅井長政が離反したからです(実は裏切りの理由はよくわかっていません)。同年6月には姉川の戦い(織田・徳川連合軍の勝利)、9~12月には志賀の陣(和睦)で両者は対決します。が、最終的な決着はつかずじまい。やがて浅井長政は信長包囲網の一端を担う存在にもなりました。
状況が大きく変わったのが、天正元(1573)年8月の一乗谷の戦いでした。浅井方に離反者が出たのをきっかけに、信長は浅井氏の居城・小谷城を取り囲みます。そして北近江まで救援にやってきた朝倉軍を、逆に本拠地の一乗谷まで追い詰め、朝倉氏を滅亡させたのでした(8月20日)。
朝倉討伐後、すぐに小谷城を包囲
朝倉を滅亡させた信長がすぐさま向かったのは、浅井の小谷城でした。越前国のことは朝倉氏の旧臣・前波吉継に任せると、8月26日には北近江の虎御前山砦(小谷城から約2km)へと入っています。羽柴秀吉の奇襲攻撃
小谷城は本丸・京極丸・中丸・小丸……と、複数の曲輪(くるわ)が連なった山城。本丸には浅井長政、小丸には長政の父・久政がおり、二つの曲輪が連携することによって城を守っていました。ちなみに京極丸はかつて京極氏(近江の守護などを務めた一族)の屋敷があったとされる場所です。京極氏はお家騒動によって浅井氏が浅井亮政(長政の祖父)の代のときに実権を奪われています。
浅井父子の連携を断ち切ろうと、活躍したのが羽柴秀吉でした。8月27日の夜、秀吉軍は本丸と小丸の間に位置していた京極丸を、側面から攻撃したのです。
京極丸内にはすでに、信長方と通じていた者がいました。彼らの協力のもと、奇襲攻撃は見事に成功し、秀吉軍は京極丸を占領。続いて小丸を攻撃し、浅井久政を自害に追い込んでいます。(8月28日/享年49歳)
小谷城陥落の顛末は?
妻・お市と三人の娘たちは…
本丸で死を覚悟していた長政は、28日の夜、妻・お市の方と3人の娘(茶々/5歳・初/4歳・江/1歳)を信長のもとへと送り届けました。実は、小谷城が信長方の攻撃を受ける前から、お市の方らの去就について話し合われていたそうです。政略結婚ながら、長政とお市の方は大変仲が良かったことで知られています。お市は長政とともに死ぬことを覚悟していたといいますが、結局は娘たちとともに織田家へ戻されたのです。
一方で、嫡男の万福丸(まんぷくまる/10歳)は、家臣とともにひそかに城を脱出しました。
長政、切腹!
兄・信長の陣へと逃れてきたお市は、長政の助命を訴えました。すると信長も、城の明け渡しや忠誠を尽くすという条件を提示し、長政へ降伏をすすめます。しかし長政はこの条件を飲むことなく、2日間の抵抗を続けたといいます。家臣たちが次々と逃げていく中、長政は家臣・赤尾清綱の屋敷で切腹(9月1日/享年29歳)。戦国大名としての浅井家は、わずか三代で滅びたのです。
戦いが終わると、信長は小谷城に秀吉を入れます。浅井氏の旧領・江北三郡(坂田・浅井・伊香)の支配を秀吉に任せると、信長は帰陣の途に就きました。
浅井一族らの処分と助かった男児
長政と久政の首はその後、京都へと送られ、獄門にかけられます。浅井一族や近臣たちも、次々と信長に成敗されました。逃げた長政の嫡男・万福丸は潜伏先の敦賀で捕らえられ、関ヶ原で磔に処せられています(10月17日)。万福丸を串刺しにしたのは秀吉だったという説もあります。一方、長政には万福丸の他、二人の男児・万寿丸と喜八郎がいました。万寿丸は仏門に入り、喜八郎は信長の四男・秀勝や秀吉の弟・秀長、増田長盛らに仕え、大坂の陣では豊臣方として戦っています。喜八郎の子孫は丸亀藩士となっているので、浅井の血は、完全に途絶えたわけではなかったのですね。
3人の首、酒の肴になる
積年の恨みは晴れたと思いきや、信長の復讐心はこれくらいでは収まりませんでした。天正2(1574)年正月、岐阜の信長のもとへ、京都や近隣諸国の大名たちが挨拶に訪れました。彼らとの酒宴の後、開かれたのは信長の馬廻り衆だけの酒宴です。その席で酒の肴となったのが、
- 朝倉義景の首
- 浅井久政の首
- 浅井長政の首
でした。彼らの頭蓋骨は薄濃(はくだみ)という技法(= 漆で塗り固め、・金銀泥などで彩色すること)が施され、膳に置かれました。今日の宴はこれが肴だ! 飲め飲め~!
って、こえぇぇぇよ!!! 織田信長の“残虐性”を物語る話は、比叡山焼き討ち・一向一揆の殲滅など数多く……いえ、挙げていったらキリがないほど残されています。が、中でもサイコパス度の高い、こちらのエピソードは有名です。
『信長公記』によると、その酒宴ではみんな歌って遊び興じたそうです。いくらお酒を飲んでテンションが上がっても、さすがにドクロの盃が出てきたら引くでしょうよ……。とはいえ、信長が恐ろしすぎて、みんな楽しんでいる“フリ”をしていたと考えられますね。
一方、逆の見方もあります。戦国時代という、常に死と隣り合わせの時代を考えた場合、意外と“本気”でみんな楽しんでいたのかもしれません。「わー、浅井のドクロだぁ~」って感じで(?)。
まとめ
浅井家の血は“完全に途絶えたわけではない”とご紹介しましたが、むしろ三姉妹の血はすごいことになっています。浅井長政の長女・茶々は豊臣秀吉(よりによって!)の側室となり、のちの豊臣秀頼を産みました。淀の方と呼ばれ、権勢をふるったことはあまりにも有名です。
次女・初は、のちの若狭小浜藩主・京極高次(説明済の、あの京極氏です)の正室となりました(ただし二人の間に子はいません)。
三女の江は、三度目の結婚で徳川秀忠の正室として迎えられました。そして第3代将軍の家光を産むことになるのです。三姉妹は家の滅亡により不幸な人生を歩むどころか、歴史に名を刻んでいたのですね。政略的にそうなったのであり、本人たちの意思ではありませんが……。
とはいっても、これらはすべて織田信長が本能寺の変でたおれて以降のお話。信長はこの後も石山合戦・安土城の築城・武田氏との戦い……と、着々と天下統一事業を進めていくのでした。
【主な参考文献】
- 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
- 谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)
- 小和田哲男編『浅井長政のすべて』( 新人物往来社、2008年)
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 加唐亜紀『ビジュアルワイド図解日本の合戦』(西東社、2014年)
- 全国歴史教育研究協議会『日本史用語集A・B共用』(山川出版社、2014年)
- 矢部健太郎『超ビジュアル!歴史人物伝 織田信長』(西東社、2016年)
- iRONNA「「ドクロの盃」に誓った信長、仏教根絶と第六天魔王の深すぎる因縁」
- 東洋経済オンライン「「虐殺者」織田信長は、ここまで残酷だった そこまでやる?「本当の姿」を知っていますか」
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