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  • 徳川家康
 2019/05/06

「大久保忠世」三河譜代として家康を支えた「いぶし銀」家臣の実像に迫る!

大久保忠世の肖像画

大久保忠世という人物は、松平家(徳川家)の家臣として著名な大久保家に生まれた武将です。派手さこそないものの、家康の重臣として徳川家に多大な貢献を果たしました。

しかし、忠世という人物の生涯はあまり顧みられることがありません。その理由としては、やはり「豪快な逸話」や「伝説」に欠けるところがあり、いま一つ知名度が上がらないためでしょう。

そこで、この記事ではなかなか知る機会のない彼の生涯やその実像を、史料をもとに解き明かしていきます。(文=とーじん)

「大久保家」の出自と歴史

忠世の生まれた大久保家は、彼や息子の忠隣が活躍したために「徳川家の家臣」としては比較的メジャーな家柄としてイメージできます。しかし、意外なことに大久保家が歴史上に姿を見せ始めるのは、家康の祖父松平清康の時代からでした。

大久保家が歴史上に登場するのは、他の有力家臣である酒井家や石川家に比べてとてもに遅かったようです。松平清康の時代までは大久保家が寺社に寄進を行っていた記録が確認できていません。これは大久保家に寄進を行なうような力がなかったということを意味しています。

しかし、清康に仕えた忠世の祖父にあたる忠茂の子には武勇に優れた子どもが多く、この世代になってから大久保家は力をつけていきます。この中でも忠世の父・忠員の功績は大きかったとされ、忠世が生まれるころには大久保家の中心的な人物となっていました。

忠世の代になると、家康の重臣として厚遇され、その活躍から徳川家臣として最大規模の領地を与えられるほどの家柄に成長していくのです。

忠世の生涯

天文元年(1532年)、忠世は忠員の長男として誕生しました。年齢としては家臣ながら家康の10歳年上に相当し、年長の家臣として今川人質時代からの家康を支えていったとみられます。

忠世は15歳で初陣を経験し、家康がまだ今川人質時代を過ごしていた弘治元年(1555年)には、今川方の将として蟹江城攻めで功をあげており、蟹江七本槍の一人として忠世の名が残っています。

家康が今川家から独立して最初の試練となった三河一向一揆の際には、忠世をはじめ、大久保一族はだれ一人も家康に背く者がいなかったといいます。こうした忠節・活躍から、忠世は永禄9年(1566年)ごろの松平家(のちの徳川家)の軍制改革で「一手役之衆(旗本先手役ともいう)」に選出されています。

この「一手役之衆」とは、家康直属の機動部隊として戦闘に従事するだけでなく、家康の指示があれば真っ先に行動する先行部隊としても位置付けられていました。直参部隊ということは必然的に責任も重大であるため、忠世はこの時期までに家康から相当の信頼を得ていたことを意味します。

その後、永禄12年(1569年)の武田氏による遠江攻略に際し武功を挙げ、続いて姉川の戦い・三方ヶ原の戦い・長篠の戦いなど、家康が参戦した主要な戦では常に戦場に姿を見せました。

長篠の戦い以後の忠世は、主に武田氏の攻略を任され、武田方の二俣城を攻略後はそのまま城主に。武田氏との合戦でとても大きな功績を残しました。

天正10年(1582年)、信長死後に勃発した旧武田領の争奪戦(天正壬午の乱)では、甲斐・信濃攻略で諏訪頼忠を恭順させ、その他の武田残党も本領を保証することで味方として徳川陣営に引き入れようと画策。この計画は家康にも進言され、忠世の目論見通りに武田残党は次々と徳川家への恭順を表明しています。

天正13年(1585年)、徳川重臣の石川数正が突如として当時敵対していた羽柴秀吉のもとへ出奔するという事件が発生。このとき忠世は上野国(現在の長野県)の小諸城にいましたが、急遽家康に呼び戻されます。

この際、小諸城で自身の留守を任せた弟の忠教に「私は命を懸けて家康公の命令に従ってきた。この城の管理はお前に任せるが、私の命を預かっているつもりでこの城を守れ」と命じ、家康から厚く信頼されるとともに自身も家康に忠義を尽くしていたことがわかります。

そして、天正18年(1590年)の家康関東入国に際してはかつて後北条氏が治めていた相模国小田原の4万5000石と小田原城を与えられています。

この小田原という地は関東防衛に欠かせない場所であり、家康からの信頼度をうかがい知ることができます。また、4万5千石という石高も徳川家臣の中では井伊直政・結城秀康・本多忠勝榊原康政に次ぐ第五位であり、それゆえに「徳川四天王」の一角に数えられることもありました。

このように家康の家臣として絶大な信頼を勝ち得た忠世でしたが、文禄3年(1594年)に居城の小田原城で63歳の生涯を終えます。忠世の死後、大久保家の家督は息子の忠隣が相続しました。

忠世の主な逸話

忠世はその活躍に対して「象徴的な特徴や逸話」が少ないというのは先ほども触れました。

実際、井伊直政や本多忠勝と比べて逸話の数が少ないのも事実です。しかし、やはり家康に重用された忠世が有能であるというのは同時代から知れ渡っていたようで、彼の功績を褒めたたえる声も少なからず存在しています。

ここではあまりスポットライトをあてられることのない忠世の逸話を紹介していきます。

三河一向一揆でのエピソード

三河一向一揆といえば、三方ヶ原の戦い・伊賀越えと並んで「家康の三大危機」として知られ、しばしば取り上げられることも多い戦闘です。

一揆衆は宗教的に堅く結束しており、その鎮圧は容易ではありませんでした。極めて忠実なことで知られる家康の家臣たちの中にも宗教上の理由で一揆衆に味方する勢力が現れるなど、さながら内紛の様相を呈していました。

この一向一揆に際しても、忠世は家康に味方する形で戦場を駆け巡っています。

一説に眼を射られながらも先頭に立って陣頭指揮を行なったと伝わっています。

このほか、忠世は若い頃から親交のあった旧友の本多九郎三郎と槍合わせになり、最終的に「友人の首をとっても仕方ないだろう」という言葉をかけ、互いに笑い合ったといいます。

三方ヶ原で敵の信玄に一目置かれる

家康の生涯で最も屈辱的な敗戦を喫した三方ヶ原の戦いですが、ここでも忠世は一人気を吐きます。

敗戦後に、味方の士気高揚を目的として武田軍の陣を夜襲し、敵陣を混乱に陥れたと伝わっています。これには、武田信玄も「勝ちはしたが実に見どころのある敵であった」と感嘆したとか。

ただし、この逸話に関しては忠世の弟である忠教が記した『三河物語』が出典であるため、その信ぴょう性には疑問の余地があります。実際、有力な一次史料として用いられることも多い史料である一方、徳川家びいきの記述や事実誤認などが多く、その信ぴょう性に関しては疑わしい部分の多い書物です。

長篠の戦いでは戦ぶりを信長に高く評価される

長篠の戦いで戦場を偵察した信長は、徳川方の武将で優れた能力を発揮している二名を「武者二騎の駆け引きは見事で、鬼神をも欺く美しさだ」と評しました。その後信長が二名の姓名を家康に尋ねたところ、該当したのは忠世と弟の忠佐であることが判明します。

すると、信長は家康に「家康殿はよい配下をもっておられる。彼らは敵のもとを決して離れようとしない」と伝え、同時に「武将を従えることに関しては、家康殿には敵わない」と感じさせたと言われています。

質素倹約を重んじ、「七食ず」を実践

忠世は武勇に優れている一方で、質素倹約の意識が強い武将でもありました。忠世は、万が一の出費に備え「一か月のうち七日間は食事を摂らず倹約する」という「七食ず」を実践しています。

これは彼のライフワークとなり、4万5000石を与えられて小田原城に入った後の晩年であってもその習慣を継続していたと伝わっています。この習慣があまり健康に良いとは考えられませんが、忠世は63歳という当時としては比較的長寿の部類に入るまで生存していました。


【主な参考文献】
  • 煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』(東京堂出版、2015年)
  • 菊地浩之『徳川家臣団の謎』(KADOKAWA、2016年)
  • 柴裕之『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』(岩田書院、2014年)



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