「堂洞合戦(1565年)」織田軍、加治田衆とともに堂洞城の岸一族を撃破!

犬福チワワ
 2019/04/12
織田信長による美濃攻略戦の一つとして有名な「堂洞(どうほら)合戦」。いったいどのような戦いだったのでしょうか。男たちの戦いや駆け引き、その裏にあった “とある女性の悲劇” にも注目していただきたいと思います。

合戦の背景

弘治2年(1556)、信長の岳父・斎藤道三は自身の息子である義龍との戦いに敗れ、戦死しています。道三は死の直前、「美濃は信長に譲る」との遺言を残していましたが、実際にはそうはいきませんでした。斎藤義龍のもと、美濃の国衆がうまくまとまっていたので、信長とはいえ簡単に手が出せないという状況が続いたのです。

美濃斎藤氏との対立

さらに、手が出せないくらいならまだしも、義龍は尾張国内を攪乱し始めました。岩倉織田氏による信長への反抗や異母兄・信広の謀反にも、義龍が関わっていたとされています。うーん、これは信長に強敵が現れましたよ。どうしたもんでしょうかねぇ……。

ところが永禄4年(1561)、義龍が突然病によってこの世を去りました。信長にとってはまさに幸運! そして信長は、美濃攻略の動きを本格化させていくことになります。義龍の死から、わずか2日後に出陣したという「森部の戦い」の戦いでは、斎藤方との戦いに大勝しています。

また、永禄6年(1563)には美濃攻略のために、小牧山城(現在の小牧市)の築城を開始し、本拠地を清須からこちらへ移します。さらには美濃斎藤氏と結んでいた、織田信清(信長の従兄弟)の犬山城を攻め落とすことにも成功していました。

反信長だったはずの加治田城が味方に

一方、中濃(美濃国の中部)では、関城・加治田城・堂洞城という3つの城の間で、反信長の盟約(中濃三城盟約)が結ばれていました。

  • 関城主 → 長井道利(※1)
  • 加治田城主 → 佐藤忠能(ただよし)(佐藤紀伊守)
  • 堂洞城主 → 岸信周(のぶちか)(岸勘解由/かげゆ)

※1 斎藤道三の弟もしくは子どもだったという説あり


ところが永禄8年(1565)7月、加治田城主・佐藤忠能が丹羽長秀を介し、通じてきたのです。これを聞き、喜んだ信長は、忠能側に黄金50枚を贈ったといいます。ですが斎藤方から見れば、忠能は“裏切った”というわけですよね。しかも忠能の娘は、堂洞城主・岸信周の養女になっていたそうで……。これは穏やかではありませんね。

合戦の経過

中濃を攻略し始めた信長。まずは鵜沼(うぬま)城(現在の岐阜県各務原市)・猿喰(さるばみ)城(現在の岐阜県加茂郡坂祝町)を、次々と攻略します。そして、これら二つの城から10kmほど行ったところには、今や信長方に寝返った加治田城がありました。

そんな加治田城の南・堂洞(現在の富加町夕田・美濃加茂市蜂屋)に、斎藤方の長井道利が付城を築きます。どうやらこのままでは、加治田城が攻められてしまいそうです。そこで永禄8年(1565)9月28日、信長は加治田城救援のため、そこからほど近い斎藤方の堂洞城を包囲させたのです。

合戦は美濃国中濃地域(現在の岐阜県中南部)。色塗部分は美濃国。

堂洞城を乗っ取る

信長は長井軍(※2)に対する兵を配置する一方で、堂洞城を攻めさせます。信長軍は松明(たいまつ)を投げ入れて二の丸を焼き崩し、本丸へと攻め込んだのでした。

※2 信長軍の背後から攻めかかるつもりだったが、この日は足軽さえ出撃させなかったとされる。


午の刻(正午)から酉の刻(午後6時)まで続いたこの戦い。堂洞城主・岸信周が妻と刺し違えたという説もあるほど、凄まじいものだったようです。そんな中、太田牛一・河尻秀隆・丹羽長秀らが活躍を見せた信長軍は、堂洞城を乗っ取ることに成功しました。

翌日も戦闘が起こる

その夜は、加治田城に宿泊することになった信長。佐藤忠能と息子の右近右衛門は涙を流して、信長を迎えたといいます。うんうん、よかったですね。

翌29日には斎藤方の大軍(※3)が、帰路に就こうとした信長軍を襲うという出来事もありました。数的不利な信長軍には多数のけが人・死者も出たものの、斎藤方の軍勢を退却させ、小牧山城へと帰陣しました。

※3 長井道利軍・斎藤龍興(義龍の子)軍はあわせて3千以上、対する信長軍は7~800程度だったとされる(『信長公記』)。


八重緑とその子どもたちの悲劇

さて、最後に八重緑(やえりょく)という女性の話をさせてください。彼女は先ほど少し書きました、佐藤忠能の娘です。反信長盟約の結束を固めるため、堂洞城主・岸信周の養女となっていました。いわゆる「人質」です。

ですが父の忠能は盟約を破り、信長側と内通したわけです。よって、娘の命の保証はどこにもありません。そこで岸信周は合戦の前日、加治田城からよく見える丸尾山という場所で(怖いわ~)、八重緑を竹槍で串刺しにして晒したそうです。いかにも戦国時代って感じのエピソードですね。

さらに戦国の悲劇は、八重緑の幼い子どもたちにも及びます。八重緑は岸信周の息子・信房(孫四郎)に嫁いでいました。信長の使者・金森長近という人物が投降を勧めたところ、信房は金森の目の前で二人の子を斬首し、決死の覚悟を示したのだとか……。現代に生まれてよかったと、心から思います。

まとめ

永禄8年(1565)9月28日、中濃にあった堂洞城を巡って起きたのが堂洞合戦です。その前提には、3つの城の間で結ばれていた反信長の盟約の存在(美濃斎藤方)がありました。しかしそのうちの一つ・加治田城が信長方に寝返ったため、残りの二つの城と戦うことになったのです。

激戦の末、勝利したのは信長方。翌日には斎藤方の軍勢が押し寄せたものの、信長軍はこれを退却させています。そして美濃斎藤氏との対立は、あの「稲葉山城の戦い」へと続いていくのです。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
犬福チワワ さん
日本文化・日本史を得意とする鎌倉在住のWebライター。 都内の大学を卒業後、上場企業の経理部門・税理士法人に勤務するも、体調を崩して離職。 療養中にWebライティングと出会う。 趣味はお笑いを見ることと、チワワを愛(め)でること。

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