※『名将言行録』『常山紀談』ほか
慶長5年(1600年)の9月、関ヶ原で敗れた三成は、近江浅井郡に逃れ、再挙を図ろうとしていたが、ついに田中吉政の家臣・田中長吉に捕らえられることになった。
━━━浅井郡脇坂にて━━━
田中長吉に捕えられたとき、三成は兄のことを尋ねた。
兄の石田木工頭(=石田正澄)やその他の者がどうなったか知っているか?
木工殿は妻子を刺殺し、自らも潔く自害なさいました。
ふっ・・。ざっと済んだな。
我らもこのように落ち行くことになったが、大坂城に何とか入ったならば、もう一度同じことをしたであろう。
やがて三成は井ノ口村に連れられ、田中吉政に引き取られての対面となった。
━━━ 井ノ口村にて━━━
吉政は三成に対して親密な様子で会釈し、言った。
こたびは天下分け目の戦で上方の諸将、数万の軍兵を率いられて戦ったことは、実に末代まで語り伝わることであろう。
敗れたのは本望ではないであろうが、軍の合戦の勝敗は天の命であり、後悔はしておられないであろう。
フッ。。秀頼様のために害を排き、太閤秀吉様の恩に報いようとしたのだから、運が尽きてこうなったことを何故に後悔するのか。
そう言うと、三成は貞宗の脇差を取り出した。
!?
これは太閤秀吉様より賜わった切刃政宗の脇差だ。形見としてそなたにお渡ししよう。
そう言って吉政に与えた。
三成はこのとき縄に掛かりながらも、田中吉政のことを、これまでと同じように「田兵」と、打ち解けた呼び方をしていたという。
※『名将言行録』『常山紀談』ほか
慶長5年(1600年)の9月25日、関ヶ原で敗れた三成は、近江浅井郡に逃れ、再挙を図ろうとしていたが、ついに田中吉政の家臣・田中長吉に捕らえられることになった。
━━━ 大津、家康の陣にて ━━━
三成一行が家康の陣に到着して、その門外でしばらく待っていると、家康の陣に赴こうとする諸将が次々とその前を通り過ぎていった。
福島正則が通りがかり、三成をみつけると馬上から大声で叫んだ。
汝は無益の乱を起こして、今のそのザマはなんだ!!
わしの武運が劣っていたばかりに、貴様を生け捕り、このようにすることができなかったのが無念だ。
続いて黒田長政が通りがかると・・・
不幸にもこのようになられ、さぞかし不本意であろう。
・・・・
そして長政は、三成の汚れた服装を見ると、陣羽織を脱いで三成に着せたのであった。
一方、小早川秀秋は三成が家康の陣に到着したことを聞くと、三成の姿を一目見ようと、細川忠興が制止するのも聞かず、三成の元に赴いた。
!!!
秀秋を見た三成は・・
汝が二心を抱いていたのを知らず、わしは愚かだった。
だが、太閣殿下の恩を忘れ、義を捨てて約に違い、裏切った貴様は、武将として恥じる心ではないか?
これに秀秋は大いに赤面し、その場を立ち去ったという。
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その後、家康が門外にいる三成を呼び出して対面した。
どのような武将でも、戦に敗れることは昔からあることじゃ。なんら恥ではない。
ただただ天運により、こうなったまでのこと。今すぐにでも首を刎ねて頂きたい。
こうして家康は三成の引見を終えると・・・
さすがに三成には大将の器量がある。平宗盛とは大いに異なる。
と言い、家臣の本多正純に三成を預けたのであった。
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秀頼公はまだ年も若く、事の是非もお分かりにならないのであるから、ただ太平を保つという道をとるべきであったのに、貴殿は無益の軍を起こして、このような恥辱を受けることになったのだ。
わしは土民から身を起こし、太閤殿下から国を賜った御恩はたとえようもない。
世のさまを見れば、徳川家を滅ぼさずには、豊臣家のためにならないと思い、上杉景勝、宇喜多秀家を初めとして、意見の異なる者も強いて勧め、軍を起こしたのだ。
ところが戦いに臨んで、二心ある輩が裏切ったがゆえ、勝つべき戦に負けたのは口惜しい。志を失って運が尽きたから、源義経も衣川で命を落としたのだ。
わしが負けたのは天命である。
智将は人情を計り、時勢を知るというが、諸将の意見が異なるにもかかわらず、軽々しく挙兵したものだ。戦に敗れても自害もされないで捕まったのは、貴殿らしくもない。
貴様は武略のことを何もわかっておらんな・・。
くっ!
自害して人の手にかかるまいというのは、取るに足りない侍のすることだ。
源頼朝が伊豆土肥の杉山で朽木の洞に身を潜めていた思いなど、全くわかるまい。しかし、その頼朝も、大庭のような者に捕らわれたなら、貴様にあざ笑われるであろう。
貴様に大将の道を語ったところでその耳には入るまい。
ぐぬうっ!
三成はそう言って、その後は口を聞かなかった。
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