「津田宗及」安土桃山時代随一の目利き茶人!
- 2021/02/09
戦国時代から安土桃山時代にかけて、現代の茶道の源流となる「わび茶」が完成されていったことはよく知られています。それまでの茶の湯では書院のような広間で点前を行い、舶来品の「唐物(からもの)」を珍重する貴族趣味的な傾向が強かったとされています。
しかし、わび茶では四畳半以下などの狭い茶室を設け、旧来は美術品としては評価されなかった国産の焼き物に価値を見出すなど、新たな美意識への巨大な潮流が生み出されたといえるでしょう。これらは朝廷・公家のみならず武家にも熱烈な支持を受け、織田信長にいたっては「茶湯御政道」といって家臣団統率や政治そのものに茶の湯を採用する取り組みを実施しました。
このような美意識を牽引したのは「数寄者」などと呼ばれた当代一流の茶人たちであり、その審美眼にかなうよう国内での窯業をはじめとする幅広い文化・文物が発展をみせました。当時の茶人として真っ先に名前が浮かぶのは「千利休」かと思いますが、ほかにも数多くの優れた数寄者たちがいました。
特に利休を含む「天下三宗匠」と呼ばれた茶人は時の権力者に重用され、政治的にも大きな影響力をもつにいたったのです。それはいずれも堺の町衆であり、「武野紹鷗(たけのじょうおう)」の娘婿だった「今井宗久(いまいそうきゅう)」、そして信長・秀吉に重く用いられた「津田宗及(つだそうぎゅう)」のことを指しています。
今回は、当代随一の審美眼の持ち主とも評される、津田宗及の生涯について概観してみることにしましょう!
しかし、わび茶では四畳半以下などの狭い茶室を設け、旧来は美術品としては評価されなかった国産の焼き物に価値を見出すなど、新たな美意識への巨大な潮流が生み出されたといえるでしょう。これらは朝廷・公家のみならず武家にも熱烈な支持を受け、織田信長にいたっては「茶湯御政道」といって家臣団統率や政治そのものに茶の湯を採用する取り組みを実施しました。
このような美意識を牽引したのは「数寄者」などと呼ばれた当代一流の茶人たちであり、その審美眼にかなうよう国内での窯業をはじめとする幅広い文化・文物が発展をみせました。当時の茶人として真っ先に名前が浮かぶのは「千利休」かと思いますが、ほかにも数多くの優れた数寄者たちがいました。
特に利休を含む「天下三宗匠」と呼ばれた茶人は時の権力者に重用され、政治的にも大きな影響力をもつにいたったのです。それはいずれも堺の町衆であり、「武野紹鷗(たけのじょうおう)」の娘婿だった「今井宗久(いまいそうきゅう)」、そして信長・秀吉に重く用いられた「津田宗及(つだそうぎゅう)」のことを指しています。
今回は、当代随一の審美眼の持ち主とも評される、津田宗及の生涯について概観してみることにしましょう!
津田宗及とは
生まれ
津田宗及の生年は定かではありませんが、少なくとも16世紀の前半には誕生していたと考えられます。豪商であった「天王寺屋」の「津田宗達」の子として生まれ、通称を「助五郎」といいました。天王寺屋の屋号にみられるように、宗及の祖父にあたる初代「津田宗伯」が大坂天王寺から堺へと移ってきたものとみられ、宗及が茶の湯の手ほどきを受けたのは、その父「津田宗達」からと伝えられています。
宗達は利休へとつながる「わび茶」中興の祖ともいわれる「武野紹鷗」の門弟であり、しかも祖父・宗伯は紹鷗よりも早い段階で茶の湯を学んでいた人物でした。
宗伯の師はわび茶の創始者ともいわれる「村田珠光」であり、ほかに古今伝授を「牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく)」より学ぶといった一級の文化人でした。
このように、宗及は生まれながらにして茶の湯をはじめとした一流文化の英才教育を受ける環境にあったといえるでしょう。
前半生
宗及の前半生については詳しいことはわからないものの、天王寺屋の三代目として家業に邁進しつつ、父・宗達や紹鷗について茶の湯の修行に励んでいたことが想像されます。実家の天王寺屋は九州や琉球との交易で莫大な富を得た企業であり、堺の代表的な会合衆の一翼を担っていました。
会合衆とは自治組織の指導的役割を果たす役職者たちのことで、宗及の実家は名実ともに堺の顔役の一員だったといえるでしょう。日常的に各国や海外からの文物に触れる機会が多かったものとみられ、豊かな経済力を背景として審美眼を研ぎ澄ませる環境にも恵まれたものと考えられます。
ちなみに「宗及」とは永禄8年(1565)頃に得た法号であり、『兼見卿記』などほかの史料では「宗牛」の当て字で表記される場合もあるため、「そうきゅう」ではなく「そうぎゅう」と呼称していたものとされています。一説には、三宗匠の一人である「今井宗久(いまいそうきゅう)」との混同を避けたともいわれています。
後半生
宗及の名が本格的に歴史の表舞台へと浮上してくるのは、永禄11年(1568)に上洛してきた織田信長が、堺に2万貫(30億円:1貫≒15万円と仮定)という巨額の矢銭を要求した頃といえるでしょう。「矢銭」とは軍事費のことであり、信長は自治・自衛を実現して圧倒的な財力を誇る堺を掌握するため、無理難題を強いて従属か武力制圧への圧力をかけたのです。
堺の町衆は当初、三好氏などに援助を依頼してこれに抵抗する論調が主流でしたが、今井宗久ら和平派の仲介・説得により戦闘は回避されました。
宗及も和平派に属する立場ではありましたが、天王寺屋は石山本願寺との関係性も深く、このこともあり宗及自身の信長への接近は今井宗久の後塵を拝したようです。
しかし翌年、信長の上使として「佐久間信盛」以下100名ばかりが堺を訪れた際には大座敷で饗応するなど、財力を遺憾なく活用して対応しています。
また、天正2年(1574)のはじめには、信長のいる岐阜を訪問し、手厚い歓待を受けたことが記されています。この際に信長秘蔵の名物茶器の拝見を許可されるなど、別格の扱いを受けています。
宗及は信長が上洛の旅に京で開催した茶会に利休・宗久らとともに奉仕しており、この時期に信長の茶頭に就任したと考えられています。
同年、京都・相国寺で行われた茶会では、正倉院御物として有名な香木である「蘭奢待(らんじゃたい)」を、信長より利休と宗及のみが与えられるなど、破格の待遇を受けるまでに重用されました。天正6年(1578)に信長が堺に来た際には自邸への訪問を受け、信頼と期待を込めて接せられていたことがうかがえます。
天正10年(1582)、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれたその日、宗及は「徳川家康」「穴山梅雪」を茶席に招いていました。そこで変事の報せを受けた家康らが、急遽帰国するという緊迫した場面にも立ち会っています。
信長亡き後も秀吉に茶頭として奉仕し、より重用されてその地位が盤石のものとなりました。天正11年(1583)の大徳寺総見院茶会や天正15年(1587)の北野大茶湯では利休とともに重要な役割を果たしました。
これに先立つ九州平定では秀吉について従軍しており、九州は天王寺屋の商圏でもあったことから博多の「島井宗室」「神谷宗湛」らとのパイプを構築しています。
天正18年(1590)、大坂で行った最晩年の茶事に招いたのがその神谷宗湛であり、親しく交流が続いたことがわかります。宗及は翌天正19年(1591)に死去、その墓は堺・南宗寺に建てられています。
おびただしい数の茶会と、審美眼マニュアルの作成
生まれながらにして莫大な富と教養の環境に恵まれた宗及は、当時代における茶の湯のエリートともいえる存在でした。また永禄9年(1566)から天正15年(1587)にわたって千数百度にもおよぶ自会・他会の記録を残しており、当時の茶会の様子を知る重要な史料となっています。
永禄のはじめごろには名物茶入れの形状を判別できるよう、その切型を製作して鑑賞の助けにするなど、いわばマニュアルのようなものを用いるという工夫と合理性を示しました。
桃山時代随一の目利きとも評される宗及は、多くの名品を観察することでそういった審美眼を養ってきたことがうかがえます。
おわりに
戦国時代から安土桃山時代の茶人といえば千利休の知名度が圧倒的に高いように思われますが、天下三宗匠と呼ばれる堺町衆出身の茶人はいずれも優れたビジネスマンでもありました。特文化と経済の力を用いて堺の町の権益にのびる魔手を退けてきた、バランス感覚には目を見張るものがあるでしょう。堺の町は慶長12年(1615)の大坂夏の陣で灰燼に帰してしまいますが、宗及たちが守り続けた茶道の心は、いまなお脈々と受け継がれています。
堺・南宗寺には津田宗及をはじめ、武野紹鷗や千利休など、名だたる茶人が眠っています。もし訪れることがあれば、茶道の源流につらなる芸術の巨人たちの足跡に、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『日本大百科全書』(ジャパンナレッジ版) 小学館
- 公益財団法人 関西・大坂21世紀協会 津田宗久
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