丁寧に歴史を追求した "本格派" 戦国Webマガジン
  • 織田信長
 2019/03/12

「赤塚の戦い(1552年)」やはり大うつけ信長は信頼されず!?

赤塚古戦場付近と推定される赤塚古墳(出所:<a href="http://chuplus.jp/blog/article/detail.php?comment_id=557&comment_sub_id=0&category_id=233" target="_blank">中日新聞プラス</a>)
赤塚古戦場付近と推定される赤塚古墳(出所:中日新聞プラス

織田信長が家督を継いだ直後に起こった、赤塚の戦い。その原因は、信長自身にあった? 能力に疑問符のつくような上司を持ってしまった人なら、この戦いを起こした人物の“切実な悩み”に共感してもらえるはずです。
(文=犬福チワワ)

織田 信秀の死と尾張を巡る情勢

天文21年(1552年)(※)3月3日、信長の父で知られる、「尾張の虎」と呼ばれた武将・織田信秀が病死しました。

※信秀の没年には諸説あり。

信秀が当主を務めた織田弾正忠(だんじょうのちゅう)家は、彼の父・信定の代から力をつけ始めます。家督を継いだ信秀も優れた能力を発揮し、尾張国内では強大な勢力を築いていました。

そのため、信秀の時代になると、尾張の有力者たちは、あまり彼と “ことを構える” ことはしませんでした。そして尾張の北に位置する美濃国の斎藤道三も、娘を信秀の嫡男・信長の正室とし、同盟関係を結んでいます。

一方、東には問題がありました。三河国を実質的配下に置いていた、今川義元という存在があったのです。

三河との国境において、織田は義元に押されがちでした。そんな中、亡くなった信秀。そして家督を継ぐのは、あの「大うつけ」の信長というではありませんか。

もしあなたが織田家に仕えていて、三河と国境を接する領土(つまり今川はすぐそこ)を持っていたら、どう思うでしょう。「はぁっ、あいつが次なの? ムリムリムリムリーーーーーーーーーーっ!」ってなりますよね。

山口教継が今川方に寝返る

実際にそのような状況に陥ったのが、鳴海(なるみ)城主だった山口教継(のりつぐ)という人物でした。

教継は信秀に重用されていましたが、さすがに大うつけ・信長には忠誠を誓うことはできなかったということですね。信秀の死から間もなく、教継は義元側に寝返り、謀叛を起こすのです。

鳴海城には息子の山口教吉、砦を築いた笠寺城には今川方の5人の将(葛山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾乗連・浅井政敏)を招き入れて配備。そして自身も、桜中村城で守備を固めたのでした。

合戦の経過・結果

同年4月17日、19歳の若き織田信長は、およそ800人の兵を連れて出陣。古鳴海(こなるみ)の三の山へと登ります。対する山口教吉は、1500の兵を引き連れて赤塚へと向かいました。これを見た信長が動き、両者は赤塚の地(現在の名古屋市緑区鳴海町赤塚)で衝突することになります。これが「赤塚の戦い」です。

戦場は尾張国赤塚(現在の愛知県名古屋市緑区鳴海町赤塚)

戦いは、巳の刻から午の刻(午前10時から正午くらい)まで行われたといいます。激闘が行われたものの勝敗はつかず、双方ともその日のうちに帰陣しました。意外とあっけなかったのですね。

それにしても、かつては仲間だった者同士の戦い。当然、顔見知りも多かったんだとか。戦い自体は容赦なかったようですが(信長側は30人が討死)、生け捕りにされた者や敵陣に逃げ込んだ馬たちは、後でお互いに交換したそうです。なんだか、最後はほっとしますね。

まとめ

織田信秀の死後、山口教継が若き信長を見限ったために起こった「赤塚の戦い」。結局は引き分けに終わります。顔見知り同士の戦いであったため、捕虜などを交換するといった場面もありました。

その後、信長は「天下統一」の目前にまで迫ったのというのは、今でこそ常識。しかし、リアルタイムでその時代を生きていた人々からすると、信長がそんな大人物になるとは、当時は夢にも思わなかったでしょう。

タイムスリップできたら、まずは山口教継に寝返るな! と教えてあげたいですね。まぁ、うまく説得できる自信はありませんけど……。


【主な参考文献】
  • 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
  • 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)

【参考HP】




おすすめの記事



関連ワード


 PAGE TOP