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「赤塚の戦い」新当主となった信長の初戦

赤塚の戦い(アイキャッチ)
「赤塚の戦い」は、信長が家督を継いだ直後に巻き起こった合戦で知られる。

合戦の背景

天文21年(1552年)織田信長の父で当主を務めていた織田信秀が病没すると、「大うつけ」と称された評判の悪い信長が跡を継いだ。この頃、織田家はすでに尾張国内で強大な勢力を有していたが、信秀の死によって織田家中や尾張国内に動揺が走ることになる──。

その最初の混乱ともいうべきものが、赤塚の戦いである。信秀死後にまもなく、信秀に重用されていた鳴海城主・山口教継が駿河の今川義元に寝返ってしまった。彼は子の教吉を鳴海城に置き、さらに笠寺城に砦を構築して今川方の5人の将(葛山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾乗連・浅井政敏)を招き入れた。そして自らは桜中村城で守備を固めたのである。

※戦場は尾張国赤塚(現在の愛知県名古屋市緑区鳴海町赤塚)

合戦の経過・結果

同年の4月17日、この報を聞いた信長はさっそく鳴海城に向かって兵800ほどで那古野城を出陣し、小鳴海の三の山へ登って着陣した。それに対して山口教吉が鳴海城を出陣して三の山の東、鳴海からは北にある赤塚に1,500の兵で出陣して来た。これを見て信長も動きだし、両者は先陣を繰り出して赤塚の地(=現:愛知県名古屋市緑区鳴海町赤塚)で戦闘に突入したという。

赤塚古戦場付近と推定される赤塚古墳
赤塚古戦場付近と推定される赤塚古墳(出所:中日新聞プラス

合戦は巳の刻より午の刻(おおよそ午前10時から正午ごろ)まで行なわれ、両者入り乱れての接近戦となった。矢に射られて落馬した者を巡って双方から引っ張り合う光景もあったといい、そうした中で信長側は30騎が討ち死にした。

しかし、元々は味方同士でお互いに顔見知りが多かったこともあったことから、最後には生け捕りになった者を交換、さらに敵陣に逃げ込んだ馬をもお互いに返し合ったといい、結局は勝敗付かずに双方とも帰陣したのであった。





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