「河東の乱(1537-45年)」今川と北条が激突も、武田信玄の仲裁で和睦
- 2019/11/27
甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏、相模国の北条氏の三氏が「甲駿相三国同盟」を締結したのはよく知られています。特に北条氏と今川氏はそもそも北条早雲の時代より姻戚関係にあり、強い絆で結ばれていました。
しかし、そんな両氏が今川義元の家督継承後すぐに敵対関係となり、天文14年(1545)まで9年もの長きに渡って交戦状態となりました。これが「河東の乱」です。
今回はその乱の経緯と、如何にして乱が静まったのかをお伝えしたいと思います。
しかし、そんな両氏が今川義元の家督継承後すぐに敵対関係となり、天文14年(1545)まで9年もの長きに渡って交戦状態となりました。これが「河東の乱」です。
今回はその乱の経緯と、如何にして乱が静まったのかをお伝えしたいと思います。
花倉の乱と甲駿同盟の成立
花倉の乱を鎮め、義元が家督を継ぐ
天文5年(1536)、今川氏では8代目当主の今川氏輝が急死すると、玄広恵探と梅岳承芳(のちの今川義元)による家督争いが勃発します。玄広恵探が花倉城で挙兵したことから「花倉の乱」と呼ばれていますが、義元はこの戦いに勝利して9代目当主の座についています。
家督争い自体は今川氏で何度も起きており、珍しいことではありませんし、戦国時代では日常茶飯事だったでしょうが、この家督争いが大きな問題になったのは、周辺諸国を巻き込んだ点です。
以前は今川氏と主従関係であった北条氏が玄広恵探を支持し、それに対抗するため義元は敵対関係にあった武田氏と手を結んだと考えられています。
もっとくわしく
今川氏と武田氏の急速な接近
とはいいつつ、このときの義元はまだ20にも満たない半人前の青年でした。代わりに武田氏との交渉役として活躍したのが、義元の師であり、参謀役だった太原雪斎です。義元は同年6月には家督を継いでいますが、『甲陽軍艦』によると、7月には武田晴信(武田信玄)と摂家に次ぐ家格の精華家・三条公頼の娘の結婚の仲立ちをしています。かなり以前から話は進んでいたはずです。
さらに翌年には武田氏当主である武田信虎の娘を正室に迎え、甲駿同盟を成立させましたが、その立役者も雪斎だったと考えられます。
敵対関係にある武田と結んだとなれば、今川義元がいずれは武田氏とともに北条氏の領土を狙ってくることも予想されます。北条氏の2代目当主である北条氏綱も黙ってはいられなかったのでしょう。花倉の乱で家中の足並みが乱れている隙を突き、すぐに今川との同盟を破棄して今川領に攻め込んだのです。
北条氏の駿河国侵攻
東西から今川氏を挟撃
北条氏は単独で今川氏を攻めるのではなく、調略を用いて今川氏の領土である遠江国で反乱を起こさせます。見付端城の堀越氏延に挙兵を促したのです。そのための資金も氏延に送っています。堀越氏は今川氏一門で遠江今川氏として、遠江国の中心的勢力です。その反乱は義元にしてみたら脅威だったことでしょう。北条氏はさらに遠江国国人である奥平氏や井伊氏にも働きかけている記録が残っています。
こうして義元は、東は駿河郡・富士郡に北条勢の侵攻を許し、西は遠江国で反乱を起こされ、挟撃される形になりました。
北条氏綱は甲駿同盟が成立した天文6年(1537)2月にはすぐに侵攻の準備を進め、同月21日に駿河郡・富士郡への狼藉禁制を出して、同月26日には氏綱自らが出陣しています。
そして3月には富士川河口の東岸の吉原まで進軍しました。北川の小泉という場所で、富士浅間社大宮司の嫡子で今川氏の馬廻りを務める富士宮若の軍勢と交戦、4月には今川方の富士下方衆とも戦いました。5月には富士宮若の知行地である田中や羽鮒の名主が立て続けに北条方になびいています。
ちなみに堀越氏の反乱は犬居領主である天野虎景の働きによって防がれ、その功績により虎景は義元から感状を受け取っています。のちに甲駿相三国同盟が成立すると、堀越氏の勢力は急激に衰退し、やがては今川氏から離れ、徳川家康に仕えるのです。
駿河国半国を制圧
そもそも富士12郷は、伊勢新九郎盛時(北条早雲)が甥の今川氏親の後見として家督相続に貢献したことから得た旧領です。今川氏との間に同盟関係がなくなったため、北条氏としては旧領を回復する好機でした。こうして駿河郡だけではなく富士郡にも侵攻した結果、北条氏は吉原城を最前線拠点とし、駿河国のおよそ半分を支配するまでに勢力を拡大しました。
この状態がおおよそ9年間も続くのですが、その間に2つの大きな出来事が起こります。
ひとつは天文10年(1541)に北条氏綱が没して北条氏康に家督が相続されたということ。もうひとつは同年に武田氏でも信玄が新たに家督を継いだことです。ただしこちらは父親である信虎を甲斐国から追放して、強制的に当主の座に就いています。
『高白斎記』や『主代記』では、信虎が今川氏の駿河国に出かけて戻らなかったとだけ記されていますが、『妙法寺記』にははっきりと信玄のクーデターがあったことを記しています。
義父である信虎を迎え入れた義元でしたが、その隠居費用については雪斎や岡部久綱を甲府へ使わして信玄に催促していた書状が残っています。この信玄の登場によって今川氏と北条氏の対立の構図は変化していくのです。
義元の逆襲と信玄の介入
今川勢は長久保城まで侵攻
天文14年(1545)、義元はついに善徳寺に出陣し、北条勢を駿河国から追い出すために動き出します。信玄も同じく出陣しており、両者は直接会って血判状を取り交わしました。その勢いに押され、北条勢は吉原城を放棄し、氏康は伊豆国三島まで退却しています。ここで武田方から板垣信方らが使者として三島にある桑原の陣所を訪れており、おそらく和議を結ぶ交渉が水面下で進められていたと考えられます。
同年10月には、義元は長久保城(長窪)まで侵攻。その南にある沼津明法寺大善坊に禁制を下しています。同じく長久保城を囲んだ信玄は長久保城の北、善明寺に禁制を下しました。これに対し氏康は鶴岡八幡宮に勝利祈願の願文を出して出陣しました。
しかし圧倒的に不利なのは北条勢であり、長久保城を今川勢と武田勢から北と南より攻め込まれており、さらに同時に武蔵国の拠点である河越城も関東管領の山内上杉憲政ら大軍に攻められていたのです。北条勢はこのとき危機的状況にありました。
信玄の仲介により和議が結ばれる
駿河国の河東の地(富士川と黄瀬川に挟まれた一帯)を取り戻したい義元と、これ以上戦いが続くと苦しい氏康。そして信玄にも、このもめ事を一刻も早く終結させ信濃国侵攻に力を注ぎたいという思惑がありました。こうして信玄仲裁のもと和議が結ばれることになったのです。10月24日には関東管領、義元、氏康の三者の誓約書が信玄のもとへ届けられます。和議は成立し、11月6日に氏康は長久保城を開城して撤退しました。9年にも及ぶこの河東の戦乱はようやく終結したのです。
義元としては武田氏の協力によって花倉の乱を鎮めて家督を継ぎ、同じく武田氏の尽力で北条氏との和議を結び駿河国をもとの状態に立て直すことができました。義元は武田氏にたいへん感謝したことでしょう。
ただし北条氏の今川氏への不信感は拭いきれておらず、対立した状況は続きますが、それも天文21年(1552)の「甲駿相三国同盟」の成立によって解決しました。この間に信玄は信濃国の大部分を制圧しています。
おわりに
この後、今川氏はさらに力をつけていき三河国、尾張国へと侵攻していきますが、織田信長に敗れて義元は戦死してしまいます。義元が亡くなった隙を突いて甲駿相三国同盟を破棄し駿河国に真っ先に攻め込んだのはなんと信玄でした。北条氏は、今度は今川氏の援軍に向かうのです。昨日の敵は今日の友、昨日の友は今日の敵。まさに弱肉強食の戦国時代を表す代表的なエピソードです。
【参考文献】
- 有光 友學『今川義元(人物叢書)』(吉川弘文館、2008年)
- 小和田 哲男『駿河今川氏十代(中世武士選書25)』(戎光祥出版、2015年)
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