丁寧に歴史を追求した "本格派" 戦国Webマガジン

真田昌幸が「表裏比興者」として秀吉に成敗されそうになったウラ事情とは?

  • 真田幸村
 2020/05/12
真田昌幸の肖像画(個人蔵)
真田昌幸の肖像画(個人蔵)

豊臣秀吉は真田昌幸に対し「表裏比興者」と指弾し、その成敗を徳川家康に命じました。臣従していた昌幸を秀吉が見限ったのはなぜなのでしょうか?そこには様々な政治事情が絡み合っていました。

今回は昌幸が秀吉に再び臣従するまでの経緯をお伝えしていきます。
(文=ろひもと理穂)

家康との戦いに備え、秀吉から援助を得た真田

第一次上田城の戦い後、秀吉に接近

真田昌幸は信長の死をきっかけに勃発した天正壬午の乱の際、徳川家康の配下となりますが、その後は上野国沼田領の帰属問題で不和となり、やがて越後国の上杉景勝に乗り換えます。

そうした経緯から、真田と徳川の初対決となったのが第一次上田城の戦いです。昌幸は天正13(1585)年8月、上田城に攻め寄せてきた徳川勢を計略によって撃退しました。

その後、昌幸は今後も続くだろう家康との戦いに備え、豊臣秀吉(この時点では羽柴秀吉)の援助を得ようとして接近を模索します。そして9月末ごろには大坂城にいる秀吉に臣従する旨の書状を送りました。

真田と他勢力との相関図(1582~85年)
真田と他勢力との相関図(1582~85年)。秀吉に接近する以前、真田は主君をコロコロと変えていた。

この頃、従属先である越後の上杉氏は領国の統治で精一杯の状態でした。新発田重家の叛乱に対しても、景勝は秀吉の助けを借りて対応していたほどです。

徳川勢の侵攻に対し、上杉氏の援軍がほぼ期待できないため、昌幸は領地を守るためには秀吉に助力を要請するしかないところまで追い込まれていたのです。

秀吉から届いた書状の内容は「家康成敗」

秀吉は昌幸の臣従を歓迎しました。当時の秀吉は家康と対峙しており、天下統一のためにもどうにかして屈服させる必要があったからです。

上杉氏、真田氏を利用すれば家康を信濃国方面と尾張国方面から挟撃することができます。秀吉は10月17日付けの返書で真田氏への援助を約束しました。

さらに11月19日付けで秀吉から3つの条目が記された書状が昌幸に届けられました。

内容は、

  • 家康を成敗するという秀吉の決意表明
  • 来年の1月に出陣するので、昌幸も参陣すること
  • 信濃国と甲斐国への侵攻については小笠原貞慶と木曾義昌と相談すること

というものでした。

昌幸は領土拡大のチャンスと見て、さっそく信濃国と甲斐国へ調略を仕掛けていきます。この時点で秀吉と昌幸は共に打倒家康という目的で強く結びついていました。

秀吉はなぜ強行策から融和策へ転じたのか

家康成敗の準備

一方、家康は真田勢を倒すことを諦めておらず、小諸城に兵を集めて機会をうかがっていましたが、11月になって大将を務める大久保忠世、平岩親吉、芝田康忠らが浜松へ撤退していきました。

それでも鳥居元忠、大久保忠教、菅沼定利らは小諸城に残って真田勢を警戒していましたが、攻めの姿勢から守りの姿勢に変わったのは明らかです。これには昌幸も当初戸惑っていたようです。

実はこれには秀吉の調略が大きな影響を与えていました。秀吉は徳川方の小笠原貞慶を味方に引き込んだだけではなく、家康の重臣で岡崎城城代の石川数正をも抱き込むことに成功していたのです。

数正は親族や貞慶の人質の幸松丸を伴い三河国を出奔し、秀吉のもとに身を寄せました。これであらゆる機密事項が秀吉に漏れたため、緊急事態となり家康は小諸城の兵を戻したわけです。

攻めに転じた昌幸は甲斐国の武田氏の遺臣たちを味方に取り込むための調略を開始。武田信玄の息子である武田龍宝とその子、武田信道(顕了道快)が景勝の力を借りて甲斐国を取り戻すという噂を流布します(実際のところ龍宝は以前に自刃していました)。

さらに信玄の菩提所を小県郡に建立すると宣言したり、佐久郡を手に入れたら所領を与えるといった話を持ちかけて味方を増やし、佐久郡や甲斐国への侵攻の準備を進めていきました。

大地震によるダメージ

昌幸は秀吉という強力な庇護を受けたことで、領地を大きく拡大し、徳川氏に圧力をかけられると喜んでいたでしょう。しかし、ここで思わぬ出来事が起こります。

11月29日に秀吉の領地を大地震が襲ったのです。「天正大地震」です。このダメージにより、秀吉は政治方針を転換せざるを得なくなりました。家康との戦を続けて損害を膨らますわけにはいかなくなったのです。

つまり昌幸ら国衆の力も借りて武力をもって家康を制圧するという「強行策」から、戦わずして臣従を誓ってもらうという「融和策」へとシフトチェンジしました。

天下統一への道筋を見据えた秀吉の政治的判断だったわけですが、これが昌幸の領地拡大への強いブレーキとなりました。

昌幸成敗の背景

秀吉の矢留の指示

仲裁に入った織田信雄の講和案を拒否していた家康でしたが、天正14(1586)年1月、ついにこの説得を受け入れました。

秀吉は2月に入ると、すぐに家康赦免を発表します。調略を進めて準備が整っていた昌幸のもとにもその知らせが届きます。

それでも昌幸は戦支度をして、佐久郡や甲斐国への侵攻を企てていたのでしょう。秀吉は「矢留」(停戦)の命令を昌幸に下しました。

この指示に従わなかった場合、昌幸は家康と秀吉を敵に回すことになります。そうなれば秀吉に味方する上杉氏も敵、家康に味方する北条氏も敵となり、滅亡は必至です。さすがの昌幸もこの指示には従うしか選択肢がありませんでした。

秀吉は4月には妹の旭姫を家康の正室にすることを決断。5月には輿入れを実行しました。秀吉は急速に家康との友好関係を構築していったわけです。

家康は北条氏との同盟を強固なものにし、秀吉に対抗するつもりでしたが、ここまで秀吉に歩み寄られ、臨戦態勢を解きます。そして家康は、棚上げになっていた沼田領の問題を自分に任せてほしいと秀吉に願い出ます。

秀吉としては真田氏の領地問題よりも、家康を臣従させることの方が優先順位ははるかに上です。当然のように秀吉は許可します。

昌幸はなぜ上洛しなかったのか

秀吉はさらに小笠原氏、木曾氏、真田氏を家康の麾下にすることを決めました。

家康は昌幸の寄親となったわけです。これで両者の上下関係がはっきりとしました。昌幸はこの秀吉の決断に不満を持ちます。領地である沼田領を北条氏に割譲しなければならなくなるからです。

しかもこれまで戦ってきた相手の麾下にならないといけないというのは屈辱だったでしょう。昌幸には家康に戦で勝ったという自負もあったはずです。

ですから小笠原氏、木曾氏が上洛して秀吉の指示に従うことを明らかにする一方で、昌幸は上洛することを拒否します。しかも人質を秀吉に差し出すこともしませんでした。

この昌幸の反抗的な態度に対し、秀吉は怒りをあらわにしました。そして8月になり、家康に昌幸成敗を命じるのです。

上杉氏に手を出さないことや、小笠原氏、木曾氏は一切真田氏に協力しないようにも命じています。このとき、秀吉は昌幸をして「表裏比興者」と指弾しました。

裏表があり、信用できないから潰してしまえという意味も込めていたのでしょうし、何を考えているかわからない危険人物という警戒心もあったはずです。

しかし、昌幸成敗はあっさりと覆りました。この理由ははっきりとしていません。景勝の必死の説得に秀吉が応じたという説もありますし、家康の勢力拡大を抑えるには必要だと秀吉が判断したという説もあります。

こうして赦免された昌幸は天正15(1587)年に上洛し、豊臣大名に加えられるのです。

まとめ

もしかすると昌幸成敗は、家康の上洛を早めるために、秀吉と昌幸が一芝居打った可能性もあります。このことで秀吉と家康の関係はさらに改善されたからです。

だからすぐに昌幸成敗は取り消されたのかもしれません。だとすると秀吉は昌幸の知略や強さを評価していただけでなく、豊臣政権に必要な存在として認めていたのではないでしょうか。


【参考文献】
  • 黒田基樹『豊臣大名 真田一族』(洋泉社、2016年)
  • 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社 、2015年)
  • 平山優『大いなる謎 真田一族』(PHP新書、2015年)


  • このエントリーをはてなブックマークに追加

該当カテゴリと関連タグ



おすすめの記事


 PAGE TOP