「真田幸綱(幸隆)」は真田家の礎を築き、いくつもの城を落とした名将だった!

 真田氏といえばNHK大河「真田丸」で活躍した真田信繁(幸村)が人気ですが、その祖父である「真田幸綱」(幸隆)もまた城攻め、調略に長けた名将です。武田信玄に仕えた武田二十四将のひとりにも数えられているほどです。

 今回はその幸綱がどれほどの活躍をして真田氏の勢力を拡大していったのかについてお伝えしていきます。

幸綱の出自は謎に包まれている

海野氏の係累であることは確か

 幸綱の出自は謎に包まれているため、正確なところは解明されていません。信濃国の名族・滋野氏の流れを汲む海野氏の係累であることは確かであり、4つの説があります。

  • A、海野棟綱の子(『寛政重修諸家譜』『真武内伝』『滋野世記』など)
  • B、海野棟綱の子(幸義)の子)(『白川藩士海野氏系図』など)
  • C、海野棟綱の娘の子(『白鳥神社海野系図』『小県郡海野白鳥系図』『良泉寺矢沢系図』など)
  • D、海野棟綱の娘婿(『滋野正統家系図』)

 上記Aは海野棟綱の子という扱いです。『寛政重修諸家譜』『真武内伝』『滋野世紀』などに記されています。また、Bは『白川藩士海野氏系図』に、棟綱の子である海野幸義の嫡男と記されており、こちらでは棟綱の孫という扱いです。

 もっとも有力なものが、Cの海野棟綱の娘が母親であり、真田右馬佐頼昌が父親という説です。ただし、頼昌が父親であると記載されているのは、幸綱の弟とされる矢沢綱頼の菩提寺に伝わる『良泉寺矢沢系図』のみですから、確かとは断定できないでしょう。この場合、棟綱の孫という立場です。

 Dの『滋野正統家系図』では棟綱の娘婿という扱いで、このケースだと棟綱との血の繋がりはありません。

 このように出自がはっきりしないため、誕生も確かなことはわからず、永正10年(1513)というのが通説です。のちに主君となる武田信玄が大永元年(1521)の生まれですから、幸綱の方が信玄よりも年上という扱いです。


真田氏は小県郡に勢力を築いていた

 真田氏の拠点は信濃国小県郡真田郷です。幸綱は小県郡の有力豪族である海野棟綱に従っていたわけですが、幼少期、青年期については一切わかっていません。ただし、幸綱の弟である矢沢綱頼、常田隆永の両名は、小県郡の国衆である矢沢氏と常田氏を継いでいることから考えると、海野氏と深い関わりを持つ真田氏は小県郡に勢力を築いていたと考えられます。

 幸綱は真田幸隆の名でも知られていますが、正式には幸綱であり、「綱」は海野氏の通字です。これは幸綱の嫡男である真田信綱にも継承されています。

 「綱」の通字が廃止されるのは真田昌幸の代になり、ここからは「幸」が通字で、さらに武田氏から偏諱を受けた「信」や「昌」を「幸」に次ぐものとしています。

 『甲陽軍艦』には真田郷と目と鼻の先にある砥石城(戸石城)を勢力下に置く村上氏と真田氏は対立しており、幸綱と村上義清はかなり険悪の仲だったと記されています。そのため幸綱は危機的状況に陥るのです。

武田・村上らの侵略に遭い、上野国へ亡命

領土を捨てて上野国へ亡命

 棟綱をはじめとする滋野一族は、関東管領である上杉憲政の後ろ盾もあって信濃国の佐久郡や小県郡に勢力を伸ばしていました。

 当時の信濃国は国衆の割拠状態にありましたが、甲斐国を統一し、今川氏や諏訪氏との同盟も果たした武田信虎(信玄の父)が信濃国への侵攻に着手することになります。

 天文10年(1541)5月には、武田・村上・諏訪の連合軍が佐久郡と小県郡に攻め込んできます。

武田信虎の肖像画
このとき佐久郡を侵略した武田信虎。のちに子の信玄によって追放される。

 その結果、海野棟綱の居城である尾野山城は落とされ、海野平の戦いでも敗北。『諏訪神使御頭之日記』によれば、棟綱の嫡男である海野左近大夫幸義は上田近郊の神川で討ち死にしています。大雨の影響でまともな戦いができなかったという記録も残されています。

 大敗を喫した棟綱は領土を捨て、上野国平井城の憲政のもとへ亡命。幸綱もまた上野国箕輪城城主・長野信濃守業正のもとに身を寄せました。

 一方、『諏訪神使御頭之日記』によると、滋野一族に属する矢沢綱頼と根津元直は連合軍に帰順し、村上氏に仕えることで本領を安堵されています。

 棟綱が亡命後にどうなったのかはわかっておらず、ここで海野氏は滅びました。幸綱の領土もまた連合軍に征服され、三氏によって分割された後、その大部分は村上氏の領土となっています。

 幸綱としては身を引き裂かれんばかりに悔しい思いをしたことでしょう。そして幸綱は上野国で復讐の機会をうかがうのです。

幸綱の前半生における要所マップ。色塗部分は信濃国小県郡

上野国で人脈を築く

 居候の身の上となった幸綱ですが、これ幸いに上野国で盛んに人脈を築いていきます。箕輪城の長野業正との親交を深めるだけでなく、その長野氏と姻戚関係にあたる小幡氏とも交流し、さらには吾妻郡羽根尾城の羽尾入道幸全とも親しくなりました。

 この羽根尾城は幸綱の旧領の隣国であり、旧領回復の際には重要な力となってくれることが見込まれました。幸綱はこの幸全の娘を娶っています。こうして羽尾氏の全面的な支援を受けることができるようになります。

 さらには武蔵国の藤田一族に属する用土業国とも親交を深めており、これが昌幸の代になってからの沼田城攻略に活かされます。

 このように幸綱が上野国への滞在で人脈を築いたことが、のちの真田家の飛躍につながっていくのです。

関東管領・山内上杉軍が出陣するも…

 武田氏と関東管領の山内上杉氏は同盟関係にありましたが、信玄が父親である信虎を追放して当主となると、この混乱に乗じて憲政は軍勢を出して信濃国の佐久郡、小県郡に攻め込みました。

 それに対して諏訪氏が小県郡長窪に出陣したため、憲政は長期戦となり、武田氏や村上氏に挟撃されることを恐れ、戦わずに諏訪氏と和睦し帰国しています。以後、憲政が棟綱・幸綱の旧領回復のために出兵することはなくなり、幸綱の望みは断たれることになりました。

武田氏に仕えて頭角を現す

山本 勘助の推薦により信玄に仕える

 しかし、諏訪氏の独断による和睦交渉と佐久郡蘆田郷を制圧したことが、幸綱に旧領を取り戻すチャンスを与えてくれました。

 武田氏の新たな当主となった信玄は、この一件を ”盟約違反” だとして諏訪氏に対して報復行動に移るのです。天文11年(1542)には諏訪氏を攻め滅ぼし、信濃国の制圧を本格化していきました。そんな中、幸綱は信玄に仕えることを選択します。

その時期は以下のように諸説あります。

  • 天文13年(1544)説:『信陽雑誌』
  • 天文14年(1545)説:『沼田記』
  • 天文15年(1546)説:『滋野世記』『真武内伝』『甲陽軍鑑』

 『甲陽軍艦』には信玄の家臣である山本勘助が幸綱の才に目をつけ、信玄に推薦したと記されています。また、『真武内伝』によれば、幸綱が長野業正に武田氏に出仕したい旨を正直に打ち明けたところ、業正はこれを咎めず、上信国境まで警固をつけて送り届けてくれたとか…。旧領回復の幸綱の願いを業正もよく理解していたからかもしれませんね。

 天文17年(1548)には武田勢と村上勢がぶつかります。「上田原の戦い」です。幸綱はこの戦いに参加して奮戦していますが、合戦自体は武田勢の敗北でした。

 その後、幸綱は名族望月氏の調略を行い、布引城を攻略しています。天文18年(1549)3月には、信玄は望月源三郎に700貫文を与える朱印状を発給しており、それを手渡す使者として幸綱の名が『高白斎記』に記されています。

信玄も落とせなかった砥石城を攻略

 天文19年(1550)、信玄はいよいよ村上方の支城である砥石城攻めを行いました。信玄は幸綱に対し、事前に村上氏を倒した暁には1000貫文の所領を与えることを約束しています。つまり旧領を取り戻すことができるというわけです。

 幸綱は気合い充分で砥石城攻めに加わったはずです。実際に海津領主の清野氏、高井郡福島城城主の須田氏、寺尾城城主の寺尾氏と順調に調略に成功し、貢献しました。しかし信玄は難攻不落の砥石城を落とすことができず、その間に村上義清は対立していた高梨氏と和睦、葛尾城から出陣し武田勢を挟撃する形をとったため、信玄は撤退を決意します。

 村上勢の追撃は激しく武田勢は甚大な被害を出してしまいました。上田原の戦いに次ぐ信玄の敗戦です。これを「砥石崩れ」と呼んでいます。戦上手の信玄ですら義清にはかなり手こずったのです。

 しかし翌天文20年(1551)、その状況を打開したのが幸綱でした。幸綱は信玄ですら落とせなかった砥石城を、調略をもってわずか1日で陥落させました。調略の詳細ははっきりしていません。

 弟の矢沢綱頼が城内におり内通したという説もあります。信玄としては、自身があれだけ手こずった砥石城を、新参者の幸綱があっという間に落としてしまったのですからさぞかし驚いたことでしょう。そしてこれで義清を倒せると歓喜したに違いありません。

旧領の回復に成功

 葛尾城を支える難攻不落の砥石城を奪われたことで、義清は葛尾城を維持できなくなります。そして武田勢の圧力に屈して、天文22年(1553)には領土を捨て、越後国の上杉謙信(この時期は長尾景虎)を頼って亡命しました。以前、幸綱が領土を捨てて上野国へ亡命したのとまったく同じ状況です。

 こうして幸綱はついに旧領を回復することに成功しました。亡命してから12年という月日が経過していました。

 『高白斎記』によると、信玄は幸綱に対し、三男の真田昌幸を人質として甲府に出仕させることを条件に、真田郷付近の秋和350貫文を加増しています。信玄の次なる敵は義清が亡命し、その旧領回復に協力する上杉謙信でした。

 謙信との戦いに幸綱の存在は欠かせないと信玄は考えていたに違いありません。事実、旧領を回復した幸綱はこの後の武田氏領土拡大に貢献し、その存在感をアピールしていきます。


上野国攻めに加わる

上杉謙信との激闘

 弘治2年(1556)、幸綱は北信濃埴科郡の上杉方の尼飾城(東条城)を陥落させる手柄をたてています。幸綱はこの尼飾城に小山田備中守虎満と共に駐留し、川中島地方制圧に貢献しました。永禄3年(1560)に海津城が築城されるまでの期間は、この尼飾城が川中島地方の重要拠点でした。

 永禄4年(1561)8月、武田勢と上杉勢がもっとも壮絶な戦いをした「第四次川中島の戦い」が起こります。幸綱もこの戦いに参加しており、飯富虎昌、馬場信春、小山田虎満らと共に謙信が布陣した妻女山攻めに加わっています。

 なお三男の昌幸はこれが初陣で信玄に従っていました。『滋野世紀』によると、幸綱はこの戦いで重傷を負ったと記されています。

幸綱の戦いと要所マップ。色塗部分は信濃国小県郡、赤マーカーは幸綱が落とした城

吾妻郡の制圧に貢献

 第四次川中島の戦い以降、信玄と謙信との戦いは鎮静化し、信玄は方向転換して西上野侵攻に着手します。そこで上野国に詳しく、上野国の国衆とも人脈が豊富な幸綱が起用されました。国峰城城主の小幡尾張守憲重の支援を幸綱に命じています。西上野侵攻について信玄は幸綱と憲重のふたりを信頼していたようです。

 永禄6年(1563)には吾妻郡のもと舅である羽尾入道幸全を追放しています。さらに永禄8年(1565)には岳山城を攻略し、吾妻郡を制圧することに成功しました。

 信玄は永禄9年(1566)に箕輪城の長野業正を倒して西上野を制圧。幸綱と嫡男である真田信綱は岩櫃城に入り、さらに上野国全土の制圧に貢献していきます。幸綱が信玄に倣って出家して「一徳斎」と号したのはこの時期です。

 『寛永諸家系図伝』に真田幸隆の名前が初見されますが、過去帳の多くには一徳斎幸隆とセットで記されており、これが法名だった可能性も指摘されています。

南方からみた岩櫃山。中腹に武田の三堅城のひとつ、岩櫃城跡がある。
南方からみた岩櫃山。中腹に武田の三堅城のひとつ、岩櫃城跡がある。(出所:wikipedia

 幸綱はさらに永禄10年(1567)には長尾憲景の本拠地である白井城を攻略し、憲景を追放しました。信玄は「思いもよらない次第」とその功績を賞賛する書状を幸綱に送っています。

 幸綱は西上野の備えとして岩櫃城に入って守りを固めました。永禄11年(1568)から信玄は、三国同盟を結んでいた今川氏の駿河国に侵攻していますが、幸綱はこれには加わっていません。

家督譲渡して隠居、信玄の後を追うように病没

 岩櫃城にあって、信玄の天下統一を待ち望んでいたことでしょう。元亀元年(1570)4月には、幸綱は家督を嫡男である信綱に譲っています。

 駿河国、遠江国、さらに徳川家康の支配する三河国まで侵攻し、上洛を目指した信玄でしたが、天正元年(1573)、その西上作戦の途上で病没。信玄の死は一部の重臣が知る以外は秘匿されたと伝わっていますが、はたして幸綱にはその知らせがあったのでしょうか? 信玄の後を追うように幸綱もまた翌年の天正2年(1574)5月に病没しました。

おわりに

 真田氏はその後、昌幸の代に近隣の戦国大名と絶妙な距離関係を保ちながら勢力を拡大していきます。そして調略に長け、戦上手の真田氏は、天下を統一した徳川家康や豊臣秀吉を警戒させる存在となっていきます。

 その礎を築いた人物こそが、真田氏初代当主・真田幸綱だったのです。




【参考文献】
  • 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社、2015年)
  • 平山優『大いなる謎 真田一族』(PHP研究所、2011年)
  • 平山優『真田三代』(PHP研究所、2011年)
  • 平山優『新編武田二十四将正伝』(武田神社、2009年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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