【解説:信長の戦い】稲葉山城の戦い(1567、岐阜県岐阜市金華山) 信長は如何にして美濃平定を成し遂げたのか?
- 2023/09/26
織田信長が美濃平定を成し遂げることになった「稲葉山(いなばやま)城の戦い」。いったいどんな戦いだったのでしょうか。どうやら信長にとっては、人生のターニングポイントだったようです。敵方・斎藤龍興の人望のなさや、信長軍の仕事の速さにも着目してご覧ください。
長年にわたる美濃斎藤氏との対立
織田氏と美濃の斎藤氏は、信長の父・織田信秀の時代から抗争を繰り返していました。ところが両者は一旦和睦。その証として、信秀の嫡男・信長のもとに斎藤道三の娘・濃姫(帰蝶)が嫁ぐことになります。この政略結婚により、両者にはしばらく安定した関係が続きました。例えば「村木砦の戦い」では、信長の援軍要請に道三が応じるなど、協力的な姿勢も見られたほどです。
ところが弘治2年(1556)4月、道三が息子の斎藤義龍に討たれた(長良川の戦い)ことから、再び両者は対立。局地的に交戦を繰り返すようになります。信長も時には負けることがあり、そう簡単には美濃を攻略することができないでいたのです。
永禄4年(1561)にはそんな強敵・義龍が病死しますが、その息子の龍興の代になっても斎藤氏との対立は続いていました。
美濃三人衆の裏切り
そういった状況下にあった永禄10年(1567)8月1日(9月説もあり)、信長のもとに、こんな報せが届きました。「信長の味方になるので、その保証として人質を受け取ってほしい」
これは美濃三人衆(西美濃三人衆とも)と呼ばれる、西美濃の有力国衆たちからのものでした。すなわち美濃三人衆が示し合わせて、斎藤龍興を裏切ったということです。
ちなみに美濃三人衆とは以下の三人の武将を指します。
- 氏家卜全(ぼくぜん/直元):美濃大垣牛屋城主
- 稲葉一鉄(良通):のちの美濃曽根城主。徳川家光の乳母・春日局の祖父としても有名
- 安藤守就:美濃河渡城主
父・斎藤義龍の死後、14歳という若さで家督を継いだ龍興。彼は失政が多かったため、家臣から背かれることもしばしば……。とりわけ有名なのが竹中半兵衛(重治とも/のちに羽柴秀吉の軍師として活躍した人物)によって、自身の居城・稲葉山城(現在の岐阜県岐阜市)を乗っ取られたという出来事です。
時期は少しさかのぼりますが、永禄7年(1564)頃、竹中半兵衛がわずか十数名の兵で城を奪取。このときも安藤守就は、半兵衛に協力したと言われています。それから半年後、稲葉山城は龍興に明け渡されたものの、それ以降は家臣の寝返りが目立つようになっていたのです。なんだかこのまま放っておいても、美濃斎藤家の終焉は近いような気もしますが……。
合戦の経過と結果は?
そんな状況の中、あの美濃三人衆までもが龍興を裏切る―。信長にとってはまたとない、絶好の機会ですね。そこで信長は人質の受け取りのため、村井貞勝と島田秀順(ひでより)という二人の使者を、西美濃へと派遣しました。仕事が速すぎる信長軍
ところが信長は、人質が到着するまで、おとなしく待っていたわけではありませんでした。すぐさま軍勢を出し、瑞竜寺山という、稲葉山と尾根続きの山を占拠させています。そして斎藤方が「あれは敵か味方か?」なんて騒然としているうちに、城下町に火を放ちました。その日は風の強かったため、稲葉山城はすぐに裸城になったそうです。信長軍、仕事速すぎです!さらにその翌日には、四方に鹿垣(ししがき/獲物が逃げないための設備)を巡らせ、稲葉山城を完全に包囲します。そこへ駆けつけたという美濃三人衆も、織田軍のあまりのスピードの速さには、かなり驚いたのだとか(『信長公記』)。
斎藤龍興の逃走
そして永禄10年(1567)8月15日(※1)、稲葉山城の兵たちが降参し、斎藤龍興は城を脱出。長良川から舟に乗り、伊勢長島(現在の三重県桑名市)へと逃げたそうです。こうして信長は、父・信秀にも実現できなかった、美濃平定を成し遂げたのでした。父子二代、長きにわたる戦いでしたね。戦後
「岐阜」への改名
さて、稲葉山城の戦いでは、信長軍によって焼き払われてしまった城下町。もともと「井之口(井口)」と呼ばれていましたが、信長は「岐阜(※3)」と名前を変えます。そして屋敷を建てて家臣たちを住まわせ、賑わいを取り戻そうとしました。さらには楽市楽座の政策が功を奏し、結果的に岐阜は日本有数の経済都市にまで発展したのです。
なお、「岐阜」の命名は古代中国・周の時代の都「岐山(きざん)」にちなんだとされています。周王朝は西安近くにある岐山を拠点として、殷(いん)王朝を滅亡に追い込みました。
「天下布武」の使用
また信長は、稲葉山城も「岐阜城」と改名しています。そして城を豪華に改造したうえ、本拠地をそれまでの小牧山城(美濃攻略のために築いた城)から岐阜城へと移しました。おまけに、信長があの有名な「天下布武」という印判を使い始めたのも、この頃からだと言われています。美濃の攻略後、信長はついに天下統一への道を本気で歩み始めたということですね。
まとめ
竹中半兵衛による城の乗っ取り以降、家臣の離反が目立ち始めた美濃斎藤氏。ついには美濃三人衆までが、斎藤龍興を裏切りました。その報せを受けた信長は、電光石火のごとく龍興の居城・稲葉山城へと攻め込みます。そして龍興が城からひそかに逃れたため、美濃を手に入れることに成功したのです。戦後は古代中国・周の岐山にならい、岐阜と名付けた土地に本拠地を移します。岐阜から天下統一へ乗り出そうした信長の強い決意を、感じざるを得ませんね。まさに稲葉山城の戦いとは、信長にとっての人生のターニングポインとの一つだったのではないでしょうか。
【主な参考文献】
- 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 『超ビジュアル! 人物歴史伝織田信長』(西東社、2016年)
- 中日新聞Web「450年前、信長はついに岐阜へ入りました」
- 中日新聞Web「【地名の由来22】「岐阜」の地名の意味とは?」
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