「竹中半兵衛」は無欲にして剛毅な天才軍師だった
- 2019/11/06
竹中半兵衛と言えば、黒田官兵衛とともに秀吉を支えた名軍師として有名である。その軍略の冴えは天才的であるとも評されている。講談などの影響もあり、無欲にして孤高の兵法家というイメージも強く、静かな学究肌の人物として描かれることも多い。
しかし、実のところ半兵衛はれっきとした「武将」であり、数々の軍功も挙げている。史料から見た、リアルな竹中半兵衛とはどのような人物だったのであろうか。
しかし、実のところ半兵衛はれっきとした「武将」であり、数々の軍功も挙げている。史料から見た、リアルな竹中半兵衛とはどのような人物だったのであろうか。
早くから発揮した軍才
竹中半兵衛は天文13(1544)年、竹中重元の子として美濃で生を受ける。父重元とともに
父重元は土岐氏や斎藤氏に仕え、美濃国大野郡大御堂城の城主であったという。弘治2(1556)年に斎藤道三と嫡男義龍の間で長良川の戦いが起こるが、半兵衛もこれに参戦し不在の父に代わって道三側の武将として大将を務め、籠城戦に勝利している。このとき初陣の半兵衛は僅か13歳だったと伝わる。
一般的に難しいと言われる籠城戦に勝利するあたりは、既にその軍才が並外れたものであったことを窺わせるものだろう。戦は結果的には嫡男義龍側の勝利に終わり、竹中家は失脚の憂き目に遭ってしまう。
竹中一家は発祥の地とされる岩手に戻り潜伏していたところ、領主の岩手弾正の悪政を目の当たりにすることとなる。喜多村十助の助力により、永禄元(1558)年に岩手弾正を追放した重元は、西美濃の不破郡一帯の約3万石の領地を手に入れることとなった。
重元は不破の地に菩提山城を築き、以後この城が竹中氏の居城になったのである。
義龍に仕える
永禄3(1560)年、半兵衛はついに家督を相続し、菩提山城の主となるとともに、美濃国主斎藤義龍に仕えるようになったという。なお、義龍は父道三からあまり高い評価を受けなかったとされる。ところが、いざ領国経営を任されると、意外に戦も上手く内政も巧みであったというから人物の評価とは難しいものだ。事実、義龍は織田信長の美濃攻めを一度ならず退けている。義龍なら仕えるに不足はないと半兵衛は判断したのだろう。
斎藤 龍興を諌める
その義龍が、仕えてまだ間もない永禄4(1561)年に急死する。このときの半兵衛の胸中は複雑なものではなかったろうか。というのも、後継者の龍興が暗愚であるらしいという噂を半兵衛が知らないはずがないからだ。案の定、龍興の内政はかなり酷いものであったという。有能な重役である美濃三人衆を遠ざけ、齋藤飛騨守などの一部の側近のみを寵愛するというのも酷いが、政に無関心で酒色に溺れるに至っては言語道断と言ってよいであろう。しかしながら、半兵衛の軍略のおかげで信長軍の侵攻を食い止めることができたと言うから驚く。
にもかかわらず、半兵衛を重用せず軽んじていたのはなぜなのだろうか。『常山紀談』によれば、半兵衛は女性のような容貌で身体は華奢であったとされているが、或いはこの外見から軟弱というイメージを持たれていたのかもしれない。
最初はやり過ごしていた半兵衛も、登城してきた際に、齋藤飛騨守が櫓の上から小便をひっかけるという無礼には、さすがに堪忍袋の緒が切れたらしく、これが有名な稲葉山城乗っ取り事件に繋がったという説もある。
ともかく、半兵衛は美濃三人衆の一人で、舅でもあった安藤守就(あんどう もりなり)と謀り、僅か十数名の手勢で齊藤氏本拠の稲葉山城を乗っ取り、齋藤飛騨守を斬り捨てたのである。龍興が稲葉山城から逃走したため、半兵衛が1年以上も占拠することとなる。
美濃を狙っていた信長はこれを好機と、半兵衛に美濃半国を与えるという条件で、稲葉山城を譲るよう要請した。しかし、半兵衛はこの破格の条件をあっさりと拒否し、城を龍興に返還して自らは近江浅井氏のもとに身を寄せたという。あくまで城を奪ったのは龍興を諫めるためのものであった、という大義名分にこだわったものと思われる。
なぜ龍興を追放しなかったのか
しかし、ここで1つの疑問が残る。これほどまでにダメダメな当主を半兵衛はどうして追放しなかったのだろうか。これに関して興味深い資料が存在する。龍興は永禄10(1567)年の稲葉山城の戦いに敗れ、北伊勢の長島を経由して、畿内へと逃れた。三好三人衆を頼ったのである。畿内において、龍興はキリスト教に大きな関心を寄せたという。しかも驚いたことに、宣教師たちは龍興を高く評価していたようである。
例えば、ルイス・フロイスからキリスト教の教義について講義を受けた際には、その内容を書き留め、次に教会を訪れた際には完璧にマスターしていたという逸話が残されている。ルイス・フロイスは『日本史』において、龍興を『非常に有能で思慮深い』と評している。
考えてみれば、龍興が当主となったのは僅か14歳の頃であったから、齋藤飛騨守にいいようにされるのも無理はないのではないか。もし、龍興に有能な傅役(もりやく)がついていたなら歴史は変わっていたのかもしれない。ひょっとすると、半兵衛は龍興の有能さに気がついていたのではないだろうか。
信長ではなく…
龍興が稲葉山城を去った後、半兵衛は旧領であった美濃国岩手に帰り隠棲する。この時期、半兵衛の有能さに目をつけた信長は、秀吉に半兵衛の勧誘を命じた。『武功夜話』によると、この際秀吉は三顧の礼をもって半兵衛を勧誘したと伝わる。半兵衛は信長に直接仕えることは拒否したが、秀吉の家臣になることは承諾したというエピソードとともに有名な件である。
しかし、これは後世の創作という指摘もある。もっとも、半兵衛の嫡男重門が記した『豊鑑』によると、秀吉の要請により信長が与力として秀吉配下につけたというから、信長には仕えたが、秀吉のために働いたというのは本当のところだろう。
半兵衛が正式に秀吉の与力となったのは元亀元年(1570)年の姉川の合戦以降と言われている。姉川の合戦においても、半兵衛の軍略は冴えわたり、浅井方の長亭軒城や長比城を寝返らせたことが『浅井三代記』に記されている。
その後、秀吉は播磨平定を信長より命ぜられ、天正5(1577)年半兵衛もともに播磨に入国した。この地で半兵衛は姫路城主であった黒田官兵衛に出会ったのである。
黒田官兵衛との関係
「両兵衛」の両翼である黒田官兵衛と半兵衛は、共に天才的な軍師ということもあり、よく比較される。『武功夜話』によれば、半兵衛は泰然自若にして無欲恬淡、官兵衛は野心家であったとされている。この対照的な性格の2人の「軍師」が、福岡野城をともに攻めたという珍しい記述が『信長公記』に見られる。
また、同じく『信長公記』によると、天正6(1578)年には備前八幡山城主を調略したことを報告したところ、信長は非常に喜び、軍資金黄金100枚、褒美の銀子100両を受け取ったという。
実はこの2人が同時に秀吉に仕えた期間は意外にも短い。しかし、期間は短くとも、この2人の軍師には親密な交友があったと推察される。その根拠は官兵衛最大のピンチであった同年7月からの有岡城の戦いにおける半兵衛の行動にあると思われる。
信長に反旗を翻した荒木村重を説得すべく、単身有岡城へ乗り込んだ官兵衛は、城内で捕らわれ監禁されてしまう。そのため官兵衛は外部との連絡手段を絶たれ、音信不通となってしまったのである。
疑り深い信長は官兵衛が裏切ったと思い、秀吉の人質であった官兵衛の嫡男松寿丸(のちの黒田長政)を処刑するよう秀吉に命じたが、半兵衛は機転を利かせて、信長へは偽の首を差出し、松寿丸を自分の領内に匿ったという。
のちに救出された官兵衛は、半兵衛のこの行動に心底感謝したと伝わる。
万一、信長に露見してしまえば、首が飛ぶどころの話ではない。竹中家がまるごと粛清される可能性すらあるのである。お互いを尊敬し、親密な関係があればこその対応ではなかったろうか。
戦場で死にたい
天正6(1578)年以降の中国攻めは、膠着状態が続き、厳しい戦の連続であったとされる。そんな中、状況を打開する糸口となったのが宇喜多直家の誘降であった。『武功夜話』によると、この調略を行ったのは半兵衛だというが、異論もある。播磨攻略のあたりから体調のすぐれなかった半兵衛の病状はこの頃から急激に悪化する。半兵衛は別所氏の三木城攻略のために兵糧攻めを献策したとされるが、これが最後の献策となった。病に臥せった半兵衛は秀吉の勧めもあり、一時は京で療養するが病状は快方へ向かわなかったのである。
死期を悟った半兵衛は、播磨の陣中に戻る。「養生せよ」と言う秀吉に、半兵衛は「陣中で死ぬことこそ武士の本望」と答えたと伝わる。
天正7(1579)年6月13日、播磨の陣中で半兵衛は没したと『信長公記』は伝えている。享年36歳。稀代の天才軍師の早すぎる死であった。
あとがき
その後、秀吉は半兵衛の献策に則り、三木城攻略を進めて翌天正8(1580)年にはついに、城主の別所長治が降伏する。この兵糧攻めによる無血開城戦術は、その後の備中高松城の水攻めにも用いられることとなる。備中高松城攻略により毛利氏攻略に王手をかけたのであるから、半兵衛の策はその死後も生き続けたと言える。そして天正10(1582)年6月2日に本能寺の変が起こった時点で、毛利氏をかなり追い詰めていたからこそ、急遽和睦を取りまとめ中国大返しを行うことが出来たということを考えると、半兵衛の功績は実に多大であると言わざるを得ない。
もしかすると、半兵衛は中国攻めの間に信長に何かあるかもしれないと読んで、早期に王手をかけられる策を秀吉に示したのかもしれない。考えすぎだろうか。
しかし、安国寺恵瓊が1573年12月12日付児玉三右衛門・山県越前守・井上春忠宛書状で
「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」
と述べていることは注目に値する。
信長の非業の死を予見するかのような人物評であるが、半兵衛はこの書状の「噂」を知っていた可能性もあるし、信長との距離の取り方をみると、恵瓊同様の見立てであった可能性はあるだろう。
しかし、さすがに死後20年ほどで、自らの領地である関ヶ原において天下分け目の合戦が行われるであろうとは夢にも思わなかったのではないか。
【参考文献】
- 谷口克広『豊臣軍団武将列伝 竹中半兵衛・中川清秀』歴史群像 2014年
- 吉田 蒼生雄『武功夜話―前野家文書』新人物往来社 1987年
- 太田牛一『信長公記』角川文庫―名著コレクション 1984年
- 湯浅常山『常山紀山』 岩波文庫 1938年
- 歴史街道編集部『竹中半兵衛』「歴史街道」セレクト 2010年
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